
作家井伏鱒二が亡くなった。
「山椒魚は悲しんだ。」と始まる『山椒魚』、『屋根の上のサワン』、新しいところでは広島の原爆を扱った『黒い雨』など、みんなのよく知っている作品も多いことだろう。
95歳の今年まで現役作家で、発表する作品は少なくなっていたが、毎年、文芸誌の新年号には欠かせない、文壇の長老だった。
三年ほど前、原稿執筆をお願いして、
「無理です」
というのを、
「談話をまとめて、文字にするのなら」
というので、東京のお宅にうかがった時も、巨大な机の上には、読みかけの分厚い漢籍(!)と筆墨のたぐいがきちんと置かれていた。いまなお勉強もしているし、執筆意欲もあるんだなと感動させられた。
グループに所属せず、弟子など持たず、独自の作風を貫いたから、井伏は「文学史」などには現れづらい。(それだからいっそうというか)井伏の作品の数々は、わが国の「現代文学」を語る時、落とすわけにはいかない。無条件に井伏作品が好きだ。その著書はすべて持っている、という熱心なファンも多い。この山梨にも。
井伏鱒二が山梨ひいきだったのも有名だ。
郷里の広島の福山の熱烈な井伏ファンの舘上さん(この人は井伏の後輩でもあり、井伏の著書はもちろん、作品の載った雑誌のほとんどをもっており、今、福山に「井伏鱒二記念館」を作ろうとしている)は、
「福山よりも山梨の方が好きだったんじゃないですか」と多少焼きもちを焼いているようだった。
たしかに、福山よりもひんぱんに山梨に足を運んでいる。
山梨を愛し、山梨を題材にいい作品を残した文学者は小説家の新田次郎、正宗白鳥、詩人の金子光晴、田中冬二、歌人の伊藤左千夫、若山牧水、俳人の高浜虚子……無数にいる。
その中でも、井伏鱒二の山梨の好きさ加減、また「山梨もの」といわれる作品の質と量では、群を抜いているだろう。
井伏が山梨を訪れ始めたのは、昭和の初めからだ。
最初は原稿の執筆かたがた増富、下部、御坂、道志、武川などを訪れた。
次いで、早稲田の先輩で、文壇の敬愛する先人である俳人飯田蛇笏を境川に、また、第二次世界大戦は甲府に家を借りて疎開した。
甲府がアメリカ軍の空襲をうわさされる頃、井伏は郷里福山へ再び疎開したものの、戦後はまた、ひんぱんに山梨に通うことになる。
本当は出不精な人だが、山梨から長野の入ってすぐのところ富士見に山荘があったことや、昔なじみの人が多いこともあって、つい四年ほど前まで山梨にはよく訪れた。その後は、
「山梨は好きだな。また、行きたいな。」
と何回も言いながら、足腰も弱り、ついに果たさなかった。
井伏鱒二が山梨をモチーフにした主な作品には、次のようなものがある。
『ミツギモノ』『侘助波高島のこと』『山峡風物誌』『駅前旅館』『岳麓点描』
井伏は、山梨をモチーフにしたほかの作家の作品にもしばしば登場する。
深沢七郎にもしばしばあらわれるが、有名なのは、太宰治の『富嶽百景』や『黄村先生言行録』だろう。
太宰を山梨に結びつけたのも、井伏だ。
自分の「家が富んでいること」への疑い、それゆえに「社会」への疑い、そして、なにより、「自分」への疑いから、生活が乱れ、周囲から期待されている文学も頓挫していた太宰を、一時的にもせよ救ったのは、井伏であり、山梨の土地だった。
昭和13年9月、井伏は、自分がしばしば滞在して作品執筆をしていた御坂峠天下茶屋を太宰に紹介する。
なぜ天下茶屋か不思議だが、井伏自身、天下茶屋の外川さんをはじめ「大作家」扱いしない、気のおけない待遇が心休らいだからでもあった。そして、太宰が流されやすい誘惑からも隔絶した「峠」だったこともある。
井伏は外川さんに
「太宰は体が弱っているし、普通の泊り客より50銭余計に出すから、栄養のつくものを食べさせてやってくれ」
と頼んだという。外川さんは特別な御馳走もないので、苦労して、たまには鳥肉料理を出したり、河口湖の鯉・鱒などを出したという。
太宰自身もそれほどグルメというのでもなく、「ほうとう」なんかを好んだという。もっとも、最初は「放蕩」の皮肉かと思ったそうだが。外川さん一家も太宰が大作家になるなどとは意識せず、ただ、風変わりなシャイな泊まり客だと思い、「先生」扱いしなかった。それが、太宰にはなにより気が楽だった。
○
井伏は太宰の心を安定させるために結婚させたらと考えていた。御坂へ来る直前の縁談は、太宰の風評がかんばしくないこともあって壊れた。
御坂へ来るようになってから、井伏は毎日新聞の甲府支局にいた高田英之助に
(この人も福山で井伏の後輩で若いころ伊馬春部、太宰と共に作家を目指す井伏門下の三羽ガラスと言われた人だ。平成2年に亡くなった)
太宰の嫁さん候補をさがすよう頼む。高田のフィアンセが甲府の娘さんだったからだ。
高田はフィアンセの友達のお姉さん石原美知子を紹介する。
井伏立ち会いで太宰がお見合いをしたのは、御坂峠へ来て間もなく。
太宰の井伏あての手紙によれば、見合いの雰囲気は小説『富嶽百景』とほとんど違わない。つまり、多少いじけて、やぶれかぶれになっている太宰に、娘の母親が「あなたが仕事に対する情熱さえおありになるならば、過去は問わない」と言って、太宰をジーンとさせる、あの場面である。
太宰は井伏にこの結婚に大いに期待すること、「生活の立て直し」と「文学の長期建設」を誓っている。
13年の11月には、太宰は御坂峠を下りて、一高に近い横沢の寿館という高級下宿に住む。机の中を新しいペン先と原稿用紙で一杯にして。
そうして、14年1月に井伏の仲人で結婚。もっと一高に近い御崎町に新所帯を持つ。
一高前を東へ歩いていくと、御崎神社を過ぎた道の右手のかたわらに「太宰治僑居跡」の碑が目につくだろう。あの路地の奥だ。太宰はここで朝から夕方の四時まで、せっせと小説を書き、天神町の菊の湯に入り、今はなくなったが、ちかくの分部豆腐屋の豆腐で一杯飲んだ。御崎神社から一高、それに川を渡って、当時甲府連隊の演習場の中を通る路を通って湯村温泉に入った。厄地蔵のお祭にも井伏と行った。武田神社や妻の実家に近い甲府の「停車場」にも。
14年の夏には、東京三鷹に居を移すが、妻の実家があること、戦況の悪化などもあって、太宰はしばしば甲府を訪れ、あるいは滞在して作品を書き継いで行った。
昭和20年には、また、太宰治は一家で東京で空襲に逢うのを避けて甲府に移り住んだ。すでに甲府に来ていた井伏とは、またひんぱんにつきあうようになった。
結局、ここで太宰一家は20年7月6日、俗にいう「七夕空襲」に遭い、太宰はこどもをおんぶして朝日小学校に避難することになるのだが。そして、郷里の青森県金木に4日4晩かかって、再び戦火を逃れていく。
太宰は13年から20年まで、甲府に濃密なつながりをもった。
同時に、井伏とも。もっとも、井伏は太宰が津軽の高等学校(今の弘前大学)や、東京帝大(今の東大)の時から、ずっと(死ぬまで)井伏を文学上の師としていたのだが。
太宰が死んだ時、井伏の悲嘆ぶりは大変なものだったという。
思い出の御坂峠に「自分で石ころを持って行って墓がわりの碑を建ててやりたい」ともらしていた。この思いは、のちに「富士には月見草がよく似合ふ」の碑になる。
○
現在、女性作家の中でもっとも将来を期待されている津島佑子は太宰の娘である。
お会いした時、
「私には半分山梨の血がまじています」
と語っていた。津島家の食事は、母美知子の習慣もあって「山梨風」だったとも。
太宰を父として意識したことはなかったけれど、二十歳の成人式の時、母に内緒で御坂峠を訪れたという。草ぼうぼうのなかに「月見草」の碑を見た時、始めて、作家であり、父である太宰を意識し、同時に、自分の本当の成人式が済んだ気がした、とも話してくれた。涙が出そうな話だった。
一高の周りは、太宰治の遺跡だらけだ。そして、太宰をここに結びつけた井伏鱒二の足跡も。
今年の夏、井伏鱒二、太宰治など、読んでみないか。あるいは、津島佑子も。
津島の作品は「女」としての自分の将来を考えたい女子には、特にお勧めである。ついでながら、
太宰のその他の「甲府もの」には、次のような作品がある。
『新樹の言葉』『畜犬談』『美少女』『I can speak 』……。
(甲府一高「図書館だより」19・・)
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