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フェミニズム的文学論の”今”―樋口一葉研究を例に―

福 岡 哲 司

はじめに

 この講座も今回で二十七回になるようですが、皆さんのお話は作家論中心と言いますか、特定の作家の作品を取り上げた講座が多かったように思います。今回の私のは少しニュアンスが違います。作家論、作品論と言いますが、その”論”の論じ方について、私には最近気になることがあるものですから、そのあたりをお話したいと思っております。

 それでこんなわけの分からないタイトルをつけたんですが、私は女性一般を尊敬しこそすれ、あるいは畏怖しこそすれ、敵視するなどということは毛頭ないので、無論フェミニズム的な立場から文学論を展開している女性の研究者を批判しようというつもりもありません。まずもってそのことはお断りしておきたいと思います。

 私は教員をやっていますが、最近の卒業生が大学へ行って就職する、その後の過程を見ていますと、男子の方が安定志向が強いように感じます。公務員とか大企業への志向なんかがあるように感じるのです。それに引き換え、女子の方は比較的自由というか、一旦大学を卒業して企業に勤めたりするのですが辞めてしまって、また別の大学や大学院で勉強するとか、留学するとか、なかなか”かたち”を決めようとせず、実に自由なんですね。

 こういうことを考えますと、最近男性の方が俗世的というか、科学技術的というか、実業の方面に行く傾向があって、じっくり腰を据えてやる虚業、文化、芸術、学問という方面は女性に占められていて、業績を挙げている方も多いなと感じます。

 文学研究の分野でも女性の研究者は大変に多いのです。特に、私も所属している樋口一葉研究会という学会ですが、優秀な女性研究者のほとんどが所属しています。もちろん、泉鏡花だとか北村透谷だとか他の学会とだぶって参加していることもありますが、女性の文学者をテーマとする学会というだけあって、若手の優秀な女性研究者の多くが所属しています。研究活動やそれに基づく発言もなかなか活発です。年二回の例会に参加すると、そういう視点もあったのか、今まで気がつかなかったなとか、非常に刺激を受けることも多いのです。が、反面、少し肩に力が入りすぎているのではないかと感じることもあります。そのために、たとえば作品への評価と実際の作品そのものの実態が乖離しているような現象も起きているのではないかと思うこともあるのです。要するにひいきの引き倒し、「倒し」までいきませんが、ひいきしすぎているのかなという感じを受けることがあるのです。今日はその私が感じている違和感みたいなものを、樋口一葉研究を例に挙げて、そういう読み方ばかりでなく、こういう読み方もできるじゃないかということの一端をお話できればいいと思っています。「そういう読み方ばかりでなく」という「読み方」は、フェミニズムに拠って立つ読み方のことです。

 ところで、「フェミニズム」というのがどう定義されているのかと調べてみますとこんな風になっています。
フェミニズム(feminisms)
 ラテン語のフェミナ(意味=女性)から派生した言葉で、男女同権主義、女権拡張運動、または女性解放運動と訳されている。
 フェミニズム運動は、女性であるがゆえに受ける差別や抑圧からの解放を目的とした思想・運動として、十九世紀半ばから二十世紀初頭にかけて起こった。当時は女性参政権を求める運動に象徴される法制度に着目した男女平等の実現を目指す女性運動として、世界的規模での行動となって展開された。以降、一九六〇年代に再び活発化するが、この時期の運動は当時と区別して第二波フェミニズムと呼ばれている。
 第二波フェミニズムは、ウーマン・リブという新しい運動形態をきっかけに活発に展開され、制度的平等の徹底と併せて目に見えにくい日常的な性差別の撤廃についても踏み込み、ジェンダーの視点を取り込んでいく。
 現代では、「女性学」という新たな学問として研究成果が積み重ねられている。

女性学(women's studies)
 従来の学問が男性中心に進められてきたため、女性の存在や性差別の実態が見えなかったことを批判し、女性の視点から学問を問いなおし、性差別の社会的構造を解明することを主眼としている。
 一方、最近では、男の性役割の変化、女と男の完全な平等、より豊かで意義のある生き方を願う男性学も登場している。

ジェンダー(gender)
 「女らしさ、男らしさ」と言われてきたものや「女の役割・男の役割」とみなされてきたものは、生まれた時から女性や男性に備わっているものではなく、社会や文化が作り上げられてきたものであり、こうした社会的・文化的に作られた性別を意味している。
 男女平等社会を実現するため、ジェンダーフリー(人の行動や行き方を女らしさ・男らしさといった固定観念で決めつけないこと)な社会の実現を目指す必要がある。
(「女性問題キーワード111」「女性学キーワード」「女性学教育/学習ハンドブック[新版]」等より)

1.フェミニズム文学論の流れ、見解

 女性の作家のことを古い言い回しで「閨秀作家」と言います。近代において女性の小説作家が登場してきたというのは田辺(三宅)花圃の『藪の鶯』などが出てきた明治二十三年(一八九〇)ごろのことですが、そのころからこの呼称が使われていました。樋口一葉は二十四歳六か月で亡くなっていくのですが、晩年には「閨秀作家三人特集」というような冠をつけた特集号に収録されたりもします。

 元来この「閨秀」という言葉は、中国の上流の文学や書画の教養のある優れた婦人という意味で、女性の美徳を示すことばであったと言います。けれども、一方で、「閨」が女性の居室を意味するところから、男あしらいが上手な女性というニュアンスも持つようになります。

 明治から大正と進むにつれて平塚雷鳥とか与謝野晶子だとかが現れてきた時に、女性を男性に奉仕する人間としかみない差別的な用語ではないかということで、「閨秀作家」という言い方はだんだん廃れてきます。代わりに「女流作家」という言い方が使われるようになった。これは最近でもしばしば使われることがあります。ただこの語も最近は非常に分が悪いのです。なぜなら、一方で「男流作家」という言い回しはないからです。作家は作家であるのに女性だけを特別にこう言うのは、いずれにせよ男性の立場からの命名ではないかというわけです。もし言うなら「女性作家」「男性作家」ではないか、と。

 こういう流れと軌を一にしてというのか、昭和五十年代半ば(一九八〇年代)からフェミニズムの立場からの文学研究が活発になって、現在に至っています。

 これには大きな成果がありました。たとえば、明治期を中心とする女性の作家や作品の発掘、再評価が進んだということです。山梨県内でも総合婦人会館などが編集した女性史の年表がありましたが、あれを見ると、山梨県内においても明治期から女性で文芸作品を書いては「山梨日日新聞」などへ投稿している常連のいたことが知られます。フェミニズムの立場からの文学研究では、全国的な規模でこういう発掘や再評価が行われたのです。こうなってきますと「閨秀作家」「女流文学」というくくり方というのは、真に作家、作品としての評価になっているのかとますます批判が高まってきました。

近代文学研究の手法

 あまり一言でまとめてしまってはいけませんが、フェミニズムの立場に立つ作家研究、作品研究にはどんな傾向があるのでしょうか。

 たとえば樋口一葉などのことを想起していただけるといいと思いますが、女性の作家について「薄幸の才媛」だとか「夭折した悲劇の天才女流作家」という風な言い方をしてきたところがある。講座なんかで樋口一葉などを取り上げますと、受けがいいものですから私などもついついこういう形容をつけてしまうところがある。

 フェミニズム的な文学研究というのは、こういう女性作家の像からいわゆるフェミニストとしての女性像、すなわち語りたくとも語れない女性たちの代弁者、「語る女性」の代表としての像への転換をはかろうとします。あるいは、これまた一葉などに冠せられたのですが、「女性に似ず優れた作品を書く」とか「女性の筆に似合わず見事な目配りだ」とか、いわば男性の仲間に加えてもいい、言わば「名誉男性」としての女性像から、女だからこそ見え、言える人生・社会を表現している表現者だという方向に「女性性」を強調する志向があります。

 女性の携わってきた文学や思想活動について研究・調査が深まり、こうした研究態度が徹底されていく中で、研究対象の女性を何が何でもフェミニストに仕立てようとする傾向が強くなってきたように思うのです。その結果、評価と実際に書かれた作品を読み比べてみると大きなギャップを生んでいることがしばしばあるのです。

 どうしてこういうことが起きるのか。結局、今までの近代文学の研究の方法に則って女性の作家を研究しようとしているからではないか。すなわちその作家が女性として生きてきた過程、伝記的な事実をたどりながら、そこに作品創造の原点を見るという研究方法のことです。作品内容や表現の特徴そのものに即して捉えるのではなく、作品の「読み」を作者の「女性」性に一元化するような方法しか持たなかったからではないのかとも思います。

 私どもが大学の国文科に入って、何を専門にしていくかという段階になって、近代文学をやりたいと言いますと、指導教官に「誰を対象とするのか」と聞かれる。それが決まると「先ず年譜を作りなさい」と言われる。もちろん既に諸家の年譜が大抵はあるのですが、それを自分なりに補訂して、現状ではこれがこの文学者の最も完備した年譜だと言えるものを作れと言われるのです。その過程でかなりの参考文献、選考する研究文献を読まねばならない。並行して研究文献目録を作りなさい、と。これも諸家のがあるのですが、どんな小さい文献でも発見したら付け加えなさいと言われる。近代文学の研究というものはこういうところから始まるという基本があった。

 山梨県立文学館の初代の館長をされた三好行雄先生は近代文学研究で初めて大学の教授になった方です。それまで日本の大学には近代文学の講座と言うものはなかったのです。その三好先生が近代文学を専攻したいという学生たちに言ったのは、対象とする文学者の戸籍謄本をとるところから始めなさいということだったというのです。年譜を充実させなさい、研究文献目録を作りなさいと言ったのは当然です。

 これには恣意的な感想の域を超え研究の域に入っていくために、基本文献や事実を徹底して抑えさせたい、勉強させたいという「修業」的な意味合いがあったと思います。けれども、これは文学研究を作家の人となり、生い立ち、出自から始めるということなんですね。お祖父さんや曽祖父まで、いや、御先祖さんまでさかのぼっていくのが研究の基本だというわけです。文学者が創造的な行為を始めた時にそれがどう反映しているか見ていくという手法です。私などは、創造の過程で作家の実生活を反映すると言う自然主義文学、とりわけ「私小説」を研究した手法がずっと生きてきたのかなという気がします。

 一方、古典文学研究というのは、平安末期から歌学というかたちで研究が始まった長い伝統があります。そこでは表現や作品そのものに即すことが研究の前提だったと思います。もちろん写本を読み、伝本を見比べて本文校訂をし、一語一句、どういうニュアンスで誰がどう解釈してきたかを中心に行う瑣末な「訓古注釈」だと揶揄されてきました。けれども、古典文学研究は少なくとも作品中心主義で行われてきた。もっとも国学とかになってくると、本居宣長とか賀茂真淵とか、思想性を云々するようになり始めますと、その作家なり文学者の生き様を視野に入れて研究するということがなされたように思います。

 近代文学研究というのは、最初から作品よりは作家に偏向したところから始まっています。少なくとも一九七〇年代までは、こういう研究手法が主流だったといってもいいと思います。フェミニズムの文学論でも、やはり伝統的に行われてきたこういう近代文学研究の手法にどっぷりつかって始まっていると言えます。

前田愛の影響力

 さらにフェミニズム的な考え方に立つ文学研究者たちに勢いを加えたのは、前田愛氏が昭和五十四年に出した『樋口一葉の世界』でした。前田氏はその後の近代文学研究に大きな影響を与えたと思いますが、殊に女性文学者を対象とする近代文学研究者に大きな影響を与えたと言ってもいいでしょう。

 どんなところが影響力を持っていたのでしょうか。前田氏がこの本の中で取り上げている女性作家は何人もいますが、とりあえず中島湘烟と樋口一葉に絞って彼女たちをどう取り扱っているかという点を見てみたいと思います。

 中島湘烟についてはお手元の資料に錦絵を入れておきましたが、自由民権運動の女性活動家になってから岸田俊子という名の女権拡張の論客として知られています。錦絵には「女子教育について演説する岸田俊子」というキャプションがついています。

 中島湘烟は文久三年(一八六三)、京都の裕福な呉服商家に生まれ、明治十二年(一八七九)、数え十七歳で京都府知事の推薦で皇后の学問相手「御学友」として宮廷に入ります。二年後辞職してからは、土佐自由党の坂崎紫瀾、宮崎夢柳と交流、明治十七年(一八八四)から機関紙「自由燈」の客員記者として女権を主張、啓蒙的な演説会に出席します。明治三十四年(一九〇一)まで存命します。

 前田氏によれば、「美しい十二単に包まれた女官たちの不幸が、全ての女性の不幸に通じていることを自覚したときに、彼女の同権論は離陸し始め」た。彼女を「女権拡張の閨秀演説家から自由民権の活動家への成長」を促したのは「男性の圧政のもとにある女性の実態を語ること自体が、明治政府の圧政を余儀なくされている民衆の苦痛を語ることに結びついていく」という「自覚」を備えたからだ、というわけです。無論宮廷の中で見聞した「後宮」的な雰囲気について、湘烟が疑義を抱いたことは違いないのです。

 湘烟には『善悪の岐』(明治二十年・一八八七)という小説があります。実社会での活動を厭い、田舎に住んでいるインテリめいた男がいるのですが、実はその実像は殺人犯であるわけです。村に高潔な隠士の娘で二人の姉妹があって、姉娘は都会的で彼を恋慕するようになります。一方、妹娘のほうは、彼の犯罪を暴く男の側を恋慕するのです。姉妹で容疑者とそれを告発する側とに分かれてしまうわけです。姉妹のいずれも男性の意に添うことを婦人の美徳とし、それによって幸、不幸の二道に分かれる元になるという筋書きです。

 この作品は、当時流行し始めた探偵小説の亜流と言えるでしょう。山梨でも阪急電鉄、宝塚を経営する小林一三が『錬絲痕』(明治二十三年)という探偵小説を「山梨日日新聞」に連載しています。殺人事件の描写が余りに真に迫っており、実在した事件ではないかと疑われて捜査が始まって、連載が途絶したようなことがありました。

 湘烟の作品は、先ほど述べたような意味で登場人物である女性像への疑いや批判意識はないことはもとより、彼女が自由党の言論活動の中で啓蒙していた女権意識などは見られないのです。前田氏が、この作品の存在を知らなかったはずはないのですが言及していません。

 一方、樋口一葉については氏はどう取り扱っているでしょうか。

 先ずは残された「日記」などをもとに一葉自身の生活、東京の路地から路地を辿って一葉を詳細に復元するという手法をとりました。氏の言葉を借りれば、「くろぐろとわだかまっている一葉の鬱屈した想い」は「零落した士族の女が明治の上流社会にたいして抱く羨望と憧憬であり、ロマンティックな結婚の幻想」だと言うわけです。そして、「奇跡の十四か月」などという形容をされることもある、『にごりえ』『たけくらべ』を含む彼女の後期の佳作群を「錯綜した劣等感から解放され」「はじめて明治女性のもっとも深い嘆きの声を、作中人物の声とすることができた」、すなわち普遍性を得たと評価するわけです。

 前田氏のやろうとしたことは、一葉の作品中のヒロインを「明治女性」全体の表象に仕立て、作家樋口一葉を彼女らに代わって「語る女」とする試みでした。これまで「薄幸、夭折の才媛」と呼ばれてきた一葉像が覆され、自律した女の像というのが氏によって提出されたのです。一葉は自由な〈女戸主〉であり、日本初の女性職業作家であるという前田氏の定義は強烈でした。

 折りから四年制大学から大学院という高等教育を受ける女性が増え、さらには近代文学研究の道へ進んでいく女性も現れ始めた中で、前田氏の『樋口一葉の世界』の影響力は絶大でした。彼女らの研究者生活に入ろうとしたときに前田氏のこの仕事がスタートラインとしてありました。

フェミニズムに拠る一葉論

 影響は、たとえば三枝和子さんの『ひとひらの舟 樋口一葉の生涯』(平成四年・人文書院)とか関礼子『樋口一葉をよむ』(平成四年・岩波ブックレット)、『姉の力 樋口一葉』(平成五年・筑摩書房)といった研究成果として現れます。比較的近年のことで、現在も当然書店に並んでいるような本たちなんです。

 関さんの『姉の力 樋口一葉』は、「女性とはこうあるべきもの」といった作られたイメージ、即ち「ジェンダー」ですが、これと女性の経済的独立を促した職業、一葉にとっては物書きですが、これらを要に据えて、同時代の女性を取り巻く有形無形の桎梏を明らかにしました。一葉が女性の職業作家として立つことの意味を追求したわけです。また、関さんの『語る女たちの時代―一葉と明治女性表現』(平成九年・新曜社)では、一葉がどのように作家となっていったか、どう表現主体が確立されていったかということを追求しています。

 同じ頃、あるいはその後も西川祐子さんの『私語り樋口一葉』(平成四年・リブロポート)とか、菅聡子さんの一連の研究が活発に出てきています。殊に一葉研究会の事務局のあるお茶の水大学の菅さんなどの発言は目立つわけです。『時代と女と樋口一葉』(平成十一年・日本放送協会)、『メディアの時代―明治文学をめぐる状況』(平成十三年・双文社)といった仕事では、「文学界」同人、久佐賀義孝らとの〈対話〉のなかで一葉の〈女〉がどう機能したか、あるいは時代の出版メディアにおいて〈閨秀作家〉というものはどう流通したかについて追尋したわけです。

 御承知のように明治学院大学の前身となる明治女学校に集まった青年たちが「文学界」の同人です。西洋文学に通じ、プロテスタントとしてキリスト教信仰を持っている近代的なインテリの始まりのような人々です。そのなかには北村透谷もいたし、島崎藤村もいた、馬場孤蝶、戸川秋骨、平田禿木、星野天知といった人々がいました。彼等は『にごりえ』のお力が住んでいたような一葉最晩年の丸山福山町の銘酒屋に隣接した家をサロンのようにして集まっていたんです。彼等は一葉のことを、小説『やみ夜』のヒロインにちなんで「お嵐さま」とか、『嵐が丘』にちなんで「ブロンテ」などと呼んでいたそうです。この「文学界」同人の前にいた一葉の姿。

 また、久佐賀義孝というのは、樋口一葉の伝記中で謎の男性というのが何人かいる中の一人で易者です。顕真術会なる会を主宰し、政財界人にも顧客があって新聞広告なども派手に出しております。一葉は明治二十七年にこの久佐賀をたずねて千円貸してくれと申し入れる。今で言えば一千万円くらいかなと思われます。「日記」で見ますと、借金を申しいれるにあたって一葉は久佐賀に自らの過去、内面的な閲歴を虚実取り混ぜてドラマチックに語っています。そして自分は「おもしろくをかしくさわやかにいさましく世の荒波をこぎわたらん」と思うに至ったと言っています。そのために事業を始めたいから資金を貸してくれと言っているんです。この申し出を久佐賀は一旦断ります。後から追っかけるように手紙が来て、相談に乗ろうという。皆さんも聞いたことがあるでしょうが、久佐賀は一葉のからだと交換に、お妾さんになることを条件に貸してもいいようなことを匂わせるのです。一葉は「日記」の中では久佐賀のことをあしざまに言っていますが、この提案をきっぱり拒絶したかというとそうとも言えないのです。久佐賀をいなしながら様子を見、しばらく可能性を探っていく。一葉がこの千円を何に使おうとしたのかについては色々に言われます。一説には自身が育った萩の舎塾のような歌塾を開きたかったのではないかとも言われます。謎の行動の一つですが、他にも二十二宮人丸という怪しい行者のところを尋ねようとしています。

 菅さんの仕事のなかでは、こういう〈男〉との対話、あるいは彼らと一葉とのいる場の中で、一葉の〈女〉であることがどのように機能したか、さらには一葉が若い女性の作家であることが当時の出版メディアではどういう意味を持ったかについて考察しています。

 平成六年には、女性の文学研究者で構成している新・フェミニズム批評の会というのが、『樋口一葉を読み直す』という論集を出します。今、大学院などで一葉研究をしようとしている人たちに随分読まれている本です。この中の菅さんの論「〈作家〉一葉誕生のとき―初期作品をめぐって」は、一葉の初期作品の「片恋」の多さに目を留めます。これを菅さんは、一葉が作家修業をしたときの師匠だった半井桃水の助言ではないか。彼の「呪縛」の現れだと言います。若い女性作家であるあなたがこういうテーマなり結末なりを書くことが戦略上得策だと助言しつつ「呪縛」したという風に取るわけです。そして、後期の名作群については、桃水の「呪縛」からの解放の結果であり、「同時代の女たちに向けられた抑圧のさまを社会構造の全体像のなかでとらえ得た」作品群たりえていると評価します。

 もう一つ、一葉の初期作品の特徴に、心中で決着を付けるというのが多いんです。藤井和美さんは同じ論集の中の「自死の自己表現……『別れ霜』論」の中で、この特徴は半井桃水の示唆ではないかと言っています。特に近松門左衛門の『曾根崎心中』だとか近世文学の世話物、添うに添えない、あるいは義理に絡められた男女が心中をしていくということから美的世界を作り上げていく心中物と言われるジャンルです。半井桃水が一葉に小説のモデルとして示したのはこういった近世の世話物ではなかったか。一葉の文学的素養というのはいわゆる王朝文学に偏っている。「源氏物語」とか「夜半の寝覚」とかいうところからきている。ここからものを書くことをスタートしたものですから、桃水の目から見るといかにも高踏すぎる、もうちょっと俗っぽく「俗調」に書けとアドバイスした時に手本に示したのが西鶴や近松であり、近世の世話物であろうというのです。そこで心中という設定が出てくる。

 一葉の「日記」の中に心中についての桃水と一葉のやりとりが出てきます。一葉と桃水との初対面は『闇桜』を書いて桃水のところへ持参した時です。これを置いていくので見てくださいというわけです。はっきりいって桃水は人当たりのいい、長身、色白ないい男ですから一葉は一目惚れしたと思います。それは余談として、桃水からすぐ呼び出しがあって、『闇桜』はいかにも王朝文学っぽい、あなたが早く収入を得るために新聞などに載せるような小説を書きたいとするならば、もう少し「俗調に」とアドバイスする。

 そのなかで一葉が質問します。「恋愛をする男女の感情というものがなかなか分からないんです。特に最後心中に結びついていく時の男女の心情というものが分からない。どういうものなんでしょうか。」と聞く。桃水は呵々大笑したかどうか分かりませんが、「そんなもの誰にもわかりっこない。分かる必要もない。読者にいかにもこの二人は心中して行かざるを得ないと思わせるように書けばいいんだ。表現する中で拵えればいいんだ」という訳です。一葉は桃水に恋心を持ち始めていましたから、「恋ってどんなものなんでしょうか? 心中って?」と聞いた時に、小説を語りながら実は自分の内面を告白していたようなところがあると思います。一葉は桃水の言葉にはぐらかされたように感じたに違いないのです。

 人間の真情というものと虚構として小説を拵えるリアリティというものは必ずしも同じではないのだ、小説のリアリティはそれはそれで独自のものだということに一葉はまだ理解が及んでいない。だから、一葉は反発を感じるんです。桃水の小説観と自分が目指している小説とは少し違う、と。若い一葉は潔癖なところがありますから、小説というのはもう少し触れば熱いような、切れば血が出るような真情が込められているべきものではないのかと思っているわけです。彼女には小説を柱と梁とを組み立てて仕上げるものとはなかなか思いきれないところがある。読者が納得するように書けばいいのだと言われた時に、作家としては不誠実ではないかと感じたと思うのです。

  「日記」のなかのこのやりとりを考えると一葉が初期作品を書こうとしていた時、桃水が心中というモチーフもあると示唆したとは考えられないのです。このやりとりについて藤井さんなどは説明しきれていないと感じるんです。

『別れ霜』『われから』

 一葉には『別れ霜』という小説もあります。無精をしまして『樋口一葉事典』(平成八年・おうふう)というものから梗概をお借りします。
(『別れ霜』梗概)
 東京内神田の呉服商新田家の一人娘お高は、気だての優しい評判の美女。隣町で同じ呉服商を営む本家、松沢儀右衛門の一人息子芳之助と相思相愛の許嫁であった。

 お高の父運平は野心家の入婿で、何かと本家を利用していたが、欲に目が眩み、番頭勘蔵と図って、遂に松沢家の財産を乗っ取ってしまう。

 芳之助は裏町の侘住居で、人力車夫に身を落として両親を養う。

 ある雪の夜、音曲の師匠の家からの帰路、お高は偶然芳之助の引く俥に乗り合わせる。それと気づかぬ芳之助を方々へ走らせた末、お高は芳之助を割烹店に招じ、詰る芳之助に真情を吐露する。

 二人は後日の再会を約束したが、約束の夕暮、芳之助は現れず、お高は彼の陋居を訪ねる。お高は彼の両親に父親の仕打ちを詫びたが、儀右衛門は恕さず、お高を追い払ってしまう。

 この世では結ばれぬと覚悟した二人は、両家累代の墓所で心中する決意を固める。あわやの時、錦野医師と娘との婚姻を目論む運平の意を受けて監視していた勘蔵がとび出して来て、お高の腕を掴む。その時芳之助は自刃して果てた。

 その後の、座敷牢さながら、監視付きのお高の生活。彼女は乳母に頼んで密かに芳之助の両親の生計を援けていた。

 七年経ち、お高が漸く錦野医師との結婚を納得したので、添い寝の乳母が安心して寝入ったある日の明け方、お高は、家を抜け出し死出の旅に出た。
(「改進新聞」明二十五(一八九二)四・十八)(橋本威による)
 この作品について藤井さんは「個人の意志が機能しない『家』(父権)の問題を暴こうとした」ということを言っています。
また、一葉の後期作品から「心中」ものが消えることについて、藤井さんは「師(桃水)から課された時代の束縛を解き」放った結果だ、「登場人物を『生』きさせることのなかで女性の自我のありようを追求し」ようとしたからというのです。桃水はめちゃくちゃ悪者なんです。だから、『にごりえ』のお力の強さを見よというようなことになっていくのです。結局、男性vs女性の図式を桃水vs一葉と見るんですね。これはそのまま抑圧(支配)する者vs被抑圧(被支配)の者という構図なんです。

 伝記的関係を小説に映して分析し、一葉の小説が変わってきたのは桃水という男性の「呪縛」「抑圧」からの解放であり、それが一葉の女性作家としての自立を象徴していると意味づけるわけです。アイロニカルな言い方をすれば、これは女性の研究者が男性の研究者である前田愛氏の図式をそのまま借りているんじゃないのかと思うわけです。女性研究者自身が一葉について自立した見方ができてないじゃないかさえと思うのです。

 『われから』という小説もあります。あまりお聞きになったことがないかも知れませんが、これは「文芸倶楽部」という雑誌に明治二十九年五月に発表した作品で、この後エッセイめいたものは幾つか書いていますが、小説としては一葉最後の作品と言ってもいいと思います。最近この小説がとみに注目されています。構造も複雑というか何層もの重層構造になっています。妾を囲う夫に対して浮気をしている風な奥さん、女性の方もただじゃおかないよというようなところがあります。
(『われから』梗概)
 帰りの遅い夫を待って、「奥様」は、「肝の気味」でいる。

 妻恋い歩く猫の声を耳に、縁に出ると、書生部屋から灯りが洩れていた。部屋を訪れ、優しく言葉をかけたあと、寒夜に風邪でも引いてはと、奥様は、「着ていた羽織を脱いでかけて」やる。

 「奥様」の名はお町、全十三章のうち、前半のほぼ半分は、このお町の生い立ち、と言うより両親、とりわけ母お美尾を軸に語られている。

 お美尾は、夫與四郎に、「天にも地にも二つなき物」とばかりに愛され、大切にされていた。

 しかし、夫の留守中、里から「椅麗な車」が迎えにきて、外泊する。與四郎は多少不機嫌になったが、翌日の夕暮帰ってきて、母が病気でと語るお美尾を疑わなかった。ただ「與四郎は何事の秘密ありとも知らざりき」という文面が、お美尾の側にあるらしい何かを匂わせている。

 前年の花見の頃、華やかな一行が人目を奪う光景に接して以来、お美尾は物憂げだった。安月給の夫をなじり、
「立派のお人になって下され」
とせっついた。夫婦の仲も、そのため「そはそはに」なっていた。この辺りのお美尾の内面は、「はかなき夢に心の狂ひて」と表現されている。

 外泊以後、落ち着いたようにみえたが、「実家への足いとどしう近く」なり、「しのびやかに吐息をつく」ことも多くなった。

 こんな中、お美尾は妊娠し、女の子を産む。

 だが、その女児が高笑いするようになった頃、一人家を出た。與四郎の側に沿った叙述で、理由は明らかにされていないが、先述した夫への不満、美尾の母親の言い分、迎えの「金紋の車」などからして、行く先が、地位、金力とも十分な男であろうことは疑いない。

 腰弁ゆえに恋女房に捨てられた與四郎は、金による浮世への復讐をはかり、「人の生き血をしぼる」赤鬼となって、巨万の富を手にした。

 だが、その報いか、人から忌まれ、「死灰」のような人生を、五十に満たずして終える。

 幼くして母に捨てられ、父にも愛されず娘となったお町は、しかし、その富ゆえに、世間に名ある男(政治家)を婿に迎えていた。

 しかし、結婚して十年余、子供はなく、夫にも満たされず、心細く淋しい。それが性的なものを多分に孕んだものであることは、随所にうかがえる。

 こんな中、使用人たちの噂話から、夫に十何年来の妾がいること、十歳にもなる男子がいることを知る。しかし、お町は、夫を直接に責めることはしない。だが、時々「癪」を起こすようになった。

 それが度重なって、書生がその都度呼ばれるようになる。その夜々の介抱ぶりが、「乱行あさましき」ように言いなされて、使用人から一気に世の噂となり、夫の耳にも入った。

 夫にも「しのびぬ思ひ」はあったが、回りの進言もあって、別居を言い渡す。お町は、
「美事すてて此家を君の物にし給ふお気か、取りてみ給へ、我れをば捨てて御覧ぜよ、一念が御座りまする」
と一言い、「はたとにらむ」。だが、夫は、「突きのけてあとをも見ず」、
「町、もう逢はぬぞ」
と言うだけだった。(「文芸倶楽部」明二十九(一八九六)五・十)(藪禎子による)
 藪禎子さんという方は女性の現在活動している近代文学研究者の中ではベテランです。フェミニズム的な立場に立つ文学論についても、最近は少しテーマ的に論じすぎているのではないかと疑義を呈したりすることもあります。けれども、十二年ほど前に藪さんは『透谷・藤村・一葉』(平成三年・一九九一)という本の中で『われから』についてこう評価しています。
 女の孤独と解放への夢、世への哀しい認識と、それにもかかわらず燃え上がる憧れに、この小説の面目があり、歴史性がある。
 また、渡辺澄子さんという方は、一葉の日記とリンクさせて小説を論じます。最晩年の日記の中に
 あけくれに見る人の一人の友といへるもなく我をしるもの空しきをおもへばあやしう一人この世に生まれし心地ぞする(一葉日記)
という言い方があります。これを一葉の最晩年を支配していた「底無しの深い寂寥感」の表白だとし、とりもなおさず『われから』のお町の心境に投影されていると見るわけです。渡辺さんはこう言っています。
 (一葉宅を訪れる)彼等は皆男だった。女を窒息させる制度下を生きねばならぬ女の苦悩を本当には理解されない苛立ちと悲哀と不信が彼等に対して一葉にあったのではなかったか。
(「一葉文学における新たな飛躍−『われから』論」新・フェミニズム批評の会編『樋口一葉を読み直す』平成六年・一九九四)
 男性には真には理解されない女性、その背後に広がる「女を窒息させる制度」を見ているわけです。あるいは、
 男中心社会によって造られた女には自立して生きるポジションがない。ビジョンを持てる能力が培われていない。一葉の苛立たしさ、歯がゆさ、腹立たしさ、そして絞るような哀しさが、『われから』を読む私を揺する。(引用・同書)
 こう見ていくと、彼女たちの読み方にはやはり少し偏りがあるのかなと感じてしまいます。すなわち、女主人公あるいは女性の登場人物の心情=作者(樋口一葉)の心情=それを読んでいる「私」(女性研究者)の心情でもあるという、抑制のきかない感情移入をしているのです。これは抑圧された女性を語るのに女性の視点からのみ見て、かえって他の読み方を許さないという抑圧を再生産するという一種のパラドクスを生んでいるのではないでしょうか。

 樋口一葉を目覚めた女性の代表者と言いきってしまっていいのだろうかという疑問が私にはあります。一葉に『雑記』2(明治二十二年)という「女徳も又衰へたる哉」と仮題をつけた一文があります。発表を目的としたものではありません。背景には明治二十二年に起きた東京高等女学校のスキャンダルがあります。東京高等師範学校から独立し、文部大臣官房附属だった同校に対する新聞紙上の校長・教頭への誹謗が始まり、教師と女生徒との関係のゴシップ、はては同校の媒酌広告や舞踏会までやり玉に挙げられ、ついには翌年の廃校にまで至ります。

 これについて一葉が感じるところを書き留めたのです。この中では「女生徒今後数十年の帝国臣民の母富国強兵の基たる人」と言い、事件を嘆かわしいと言っています。「尊ぶべき神聖の女子無じや気なる天真をそこなはしめたる」とか「只智育の発達珍重也 女権の広長又可也 只智育と徳いくの伴はざると男尊女卑の弊風変じて女尊男卑の弊害に陥らざることこれをおそるるが故也」とも言っています。一葉の中にも、女学校のようなところで育てる生徒像として「帝国臣民の母富国強兵の基たる人」だという認識があったのです。

 今ではこの事件は森有礼文相暗殺事件をきっかけに保守派が「読売新聞」「改進新聞」などのメディアを使った意図的な「浮説事件」だと言われています。開明的でハイカラな女子教育の象徴だった東京高等女学校をスケープゴートとした女子教育全般への攻撃だったのです。が、一葉はこれらのキャンペーンをたやすく信じ、前述のような女子教育観を吐露しているのです。

 こういうことに気づいてみると、テーマを最初から念頭に置いて一葉作品を読むよりも、もっとその構造や表現に注目して作品を虚心坦懐に読んでみたらどうなのだろうと考えるのです。

 彼女の晩年の作品が優れていると言われます。それを抑圧された女性の声の代弁者という点に絞って指摘するのでは、逆に一葉の文学的な到達点を矮小化しているのではないかと思えるのです。

一葉像・「いつか来た道」

 なぜそんなことを思うのかと言いますと、フェミニズムの一葉論の論調に一葉像の「いつかきた道」との類縁性を、私は想起するからです。一葉は歴史の様々な時点で利用されてきています。

 たとえば昭和十八年六月の「東京新聞」は、昭和十八年という時点に気を付けてください、軍国主義の大立て者だった蓮田善明の一文を載せて、一葉の「塵中日記」について「明治以後憂国の言は彼女の日記を最とするかと思ふ」と言っています。それから同じ年の九月の宝塚雪組公演・舞踏劇『たけくらべ』のパンフレットのコピーでは『たけくらべ』を「子供たちの世界にも、新しい時代の覚醒はその対立をなくすばかりでなく(略)犠牲によって始めてなされる新しい時代の建設」と記述しています。すなわち『たけくらべ』という作品を大東亜を軸とする新時代建設と意識覚醒の物語の象徴だと言っています。第二次世界大戦中、こう一葉が取り扱われたこともあるのです。

 戦後になると、昭和二十二年、新生新派芸術祭参加公演として花柳章太郎のお関役で『十三夜』が上演されます。これまで大政翼賛会の指導の下、「戦意高揚」をモットーとしてきた新派演劇が「新生」と冠した時、利用したのが樋口一葉だったのです。

 文化人切手というのがかつてありました。私も切手収集なんかをしていたことがあって、森鴎外とか野口英世などがあったことを覚えています。この中に樋口一葉がいた。切手になった女性は彼女が初めてなのです。これは昭和二十六年四月、婦人参政権獲得を記念する第三回『婦人週間』にちなんで発行されました。

 その後も一葉作品は昭和二十八年の『十三夜』を皮切りに映画になってみたり、東宝日生特別公演として蜷川幸雄演出、浅岡ルリ子のお力の『にごり江』が演劇になってみたり(昭和五十九年)、同年、こまつ座が旗揚げ・紀伊国屋ホール開場二十周年記念提携公演として、井上ひさし作の『頭痛肩こり樋口一葉』をロングランさせたりしました。

 来年は山梨県立文学館が樋口一葉展を一年間ぶっ通しでやるというし、ついに五千円札の顔になると聞きます。一葉をお札の顔にしようという案はかつて一度あったのです。けれども、その時には女性だから顔がのっぺりすっきりしすぎていて偽札が造られやすいという真偽分からぬ理由でお流れになったというのです。今回五千円の顔に決まったのはなぜだか分かりません。

 困ったときの一葉頼みという現象があるように思うのです。日本が戦意喪失し始める昭和十八年の時点、敗戦後世の中が民主化されていって女性の自覚が求められるという時、一葉は利用される。企業演劇が危なくなってくると一葉をやるという。『十三夜』であれ、『にごりえ』であれ一葉作品をやると一定の客が入るんですね。今回も不況が慢性化してお金が流通しないとなるとお札の顔にするかなどと、タイミング的に勘ぐってみたくもある。

 樋口一葉の「一葉」というペンネームは、達磨さんが乗って流れていった一葉舟にちなむと言います。私は手も足も出ない達磨さんで、オアシがないという洒落で付けたと本人が言っています。冗談かも知れませんが、そんな一葉がお札の顔になるなんて随分アイロニカルであまり喜べない気がします。

 私が申し上げたいのは、一葉をある意味女性の覚醒あるいは女性の発言の代弁者、代表のように言うことというのはちょっと裏返すと銃後を護る母のイメージになったり、家を守る惣領娘のイメージになってしまうのじゃないかと思えるのです。ある意味一葉を利用しているという感じさえしてしまうのです。

 私が申し上げたいのは、ある種テーマをもって一葉を論じようとするのではなく、もっと作品に即して読んで、作品論というものを中心に語れないかということです。

国語教師として

 私は高校の国語の教員をやってきましたけれども、実は国語教育の中でもこういう問題というのはあると思うんです。たとえば、森鴎外の『舞姫』という作品が高校三年の教科書に載っていることがあります。最近指導書というのを眺めていませんが、かつてこれを読むと『舞姫』の主題を「近代的自我に目覚めた主人公が、明治社会という現実の壁にぶつかって挫折して行く過程」というようなことが書いてあった。これを生徒に分からせるなんて難しいことです。古文みたいな『舞姫』をようやく分かったとして、生徒がふと感じるのが「先生、これはただの女たらしだね」「逃げたっていうことだよね」だったりする。それを「近代的自我に目覚めた主人公・太田豊太郎が、明治社会という現実の壁にぶつかって挫折して行く過程だ」と読めというのは大変厳しいはなしです。それがわかるためにはいろんな事がわかっていなければならない。

 また、女性研究者が自分の心情を作品に投影しすぎるくらい投影して作品を読むと言いました。我々は国語教師として同様なこともやってきました。小説を扱って登場人物の心情は? 気持ちは? と気持ちが悪くなるくらい「気持ち」を聞いてきた。あるいは伝記的なものをバックに作品を読ませるということもやってきた。

 あるいは情緒的な読み方。私たちもそういう先生に教わったことがありますけれども、「万葉集」を朗々と読んで感に堪えたように「いいですねー。さあ、次行こう」って……、それもいいのですが生徒の力にはなりませんね。「いいらしい」ということはわかるんですが、「なにが、どういいのか」もう少し分析してやらないといけないのではないかということです。

 今では、国語教育の中で、情緒的な読み方はいうまでもなく、あるテーマを前提にして作品を読ませるのは本当には国語の力を付けることにはならないのではないかと言われるようになってきました。表現だとか、作者独自のモチーフのつかみ方だとかを教えていかなければ、本当の力にならないんじゃないかということです。もちろん教科書の教材それぞれは喚起力もあっていい作品だと思うのです。『羅生門』を教えて『羅生門』だけが分かっても、『山月記』を教えて『山月記』だけが分かっても国語力がついたことにはならないのではないか。

 私はここでフェミニズム的な文学論の偏りということを言いましたが、国語教師である自分もテーマ的な読み方をして、「一葉は初めての女性職業作家だぞ」とか「十八歳で戸主になったんだぞ」とか言ってしまっていたんです。やはりもう少し作品や表現に即して読まなくていいのかなということを反省しているということです。

2.一葉作品の表現の特徴あるいは小説の構造、そこから読めるもの−表現の特徴に限って

半井桃水

 半井桃水という名をしばしば挙げて、フェミニズムの女性研究者の間にはずいぶん評判が悪いということを言いました。桃水の評判が悪さは一葉が存命の時代にすでに始まっていたのです。萩の舎塾の同僚からは、家の名を取るのか己の情を取るのかどっちなのと一葉は問いつめられたりして、桃水に教わることがはなから醜聞であるように見なされる雰囲気がありました。もう一つは、一葉の晩年周囲にいた明治女学校の先生達、「文学界」の同人たちすなわちプロテスタンティズムや西洋文学の教養のあるインテリの若者達から見た桃水の姿。我らの女神様とは言わないまでも、我らの「ブロンテ」、「お蘭」と持ち上げていた一葉がろくな作品もない桃水ごときに文学を教わるなんてという心外な感想を持っていた。このころから実は桃水の悪評判というのは始まっているのです。

 ところがいろいろ考え合わせてみると、桃水が作家・一葉に与えたものは少なくなかったのではないかと思われるのです。大岡昇平などは一葉の「日記」の中に出てくる様々な男が出てくるけれど、一番立派なのは半井桃水だという感想を漏らしています。文学修業をしている一葉を最もちゃんと面倒を見ているのは桃水だというわけです。あるいは真率に対応しようとしている。確かに桃水は出版メディアや尾崎紅葉だとか当時の文壇の大家に一葉紹介の労を取ろうとしたり、彼女を主軸とした文芸誌「武蔵野」を関西において創刊したりしている。材料は多くはないのですが、先入観を捨てて桃水が一葉にどう小説の書き方を教えたのかについてもう一度見直してみると、少し見えてくるものがあると感じるのです。

 まず半井桃水という男がどういう人物かということです。彼は対馬藩の御典医の息子です。御承知のように対馬藩の宗一族というのは一貫して朝鮮と外交ルートを持っていた藩です。ある時期には貿易による利益を大分上げていた。桃水は明治文壇では朝鮮語が自由に読み書き話せる唯一の人でした。これは幼いときからの環境のなせることだと思います。

 明治維新になる八年前の万延元年(一八六〇)生まれです。桃水の伝記的な事実は、かつては朝日新聞社の『上野理一伝』(昭和三十四年)くらいしかなかったのですが、彼と朝鮮との関わりについて、上垣外憲一さんの『ある明治人の朝鮮観・半井桃水と日朝関係』(平成八年・筑摩書房)が出て、随分詳細に分かるようになってきました。

 桃水が「朝日新聞」に回想録『燼余日記』(明治三十一年)を書いていて、この中で自分は十二歳の時に医師を務める父の助手として釜山にいたという。徳川幕府から明治政府になって日本の対朝鮮政策が変わってきた。それに対して朝鮮の人たちがどう受け止めているか、明治六年のことだと思いますが、朝鮮国内の対日観について桃水が書き留めて外交官に見せたという。それは朝鮮政府が掲示した日本への激しい「罵言讒謗」だった。それが元になって日本政府内部での征韓論が起きたのではないかと桃水は書いています。その後、政界では征韓論の主唱者だった西郷隆盛は政府内での政争に敗れて下野、明治十年の西南戦争に続いていくわけです。桃水の見解は、その後、彼の寄稿を取り上げた当時の「東京日日新聞」の論調同様反征韓論に傾いていきます。

 その後も桃水は個人的な必要から、日本と朝鮮の間を行ったり来たりして朝鮮政界の混乱や経済的な窮乏を「朝日新聞」ほかに寄稿しています。明治十五年、桃水が二十代の半ばですが、朝鮮のパンソリによる古典小説の傑作『春香伝』の翻訳を二十回にわたって「朝日新聞」に連載します。インターネットなんかで「半井桃水」というのを検索しますと、韓国語のホームページでは『春香伝』を日本に紹介した功績者として随分出てくるのです。朝鮮で壬午の乱という反日暴動が起こり、桃水はルポルタージュを日本に送ります。これが評判をとって「朝日新聞」は売り上げを大幅に伸ばしたと言います。その後、朝鮮から日本に亡命していた親日派の朴永孝、後に日韓併合の際に力を発揮して侯爵にまでなった人ですが、あるいは開化派の若手閣僚・金玉均といった人たちと桃水は日本国内で密接に交流しています。彼の小説に『胡沙吹く風』(明治二十五年刊)というのがありますが、刊本になった時の題字は朴永孝が書いています。

 朴永孝は日本に亡命していましたが日清戦争の時に朝鮮に帰り、日本を後ろ盾に親清派の官僚を追い出して甲午事変というクーデターを起こして近代化政策を推進しようとする。日清戦争に日本が勝って朴らの思うとおりになったのですが、その後ロシアが出てきます。朝鮮の中では親清派に代わって親露派が出てきて、朴、金らを邪魔にし始めた。朴永孝はもう一度日本に亡命する。焦った日本はロシアと結びついている閔妃を王宮に襲撃するという事件を起こします。最終的に朴永孝は、清やロシアと結びついて反日派になっていきます。

 ある意味、桃水というのは物書きである以前にジャーナリストであり、それ以前に「壮士」だったと言えるように思います。桃水は対馬藩の御典医の子らしく対外的な視野をかなり持っていた人であることは間違いないのです。「文学界」の連中が御家人などの家の出が多く、キリスト教にも西洋文学にも通じている近代派であるとすれば、桃水は小藩の御典医の息子で唯一朝鮮語の使いこなせる東洋的な教養に裏打ちされた物書きでした。小説『胡沙吹く風』が朝鮮の民衆やその祖国の発展を願う指導者像を共感的に取り上げたように、桃水の朝鮮観というのは、上垣外憲一氏の言葉を借りれば、基本的には「生きた朝鮮の人々が生彩ある姿で描き出されており、それは正でもなく反でもなく」公平だったのではないかと言えます。朝鮮での生活体験も長いし、そこの人たちがどのようにものを感じるかということがわかっているからでしょう。

 桃水が一葉の前に現れる前史というのはこうです。

桃水の教えた「小説」

 桃水と一葉が初めて出会ったのは(一八九一)四月二十二日で、一葉が小説『闇桜』の草稿を持って桃水の家を訪れ、それを置いて帰った日です。追いかけるように来た手紙の一節は、「余り和文めかしき所多かり、今少し俗調に」というものでした。一葉は手直しをして、『闇桜』を仕上げます。仕上げた作品の一節はこんなです。
 隔ては中垣の建仁寺にゆづりて、汲かはす庭井の水の交はりの底、きよく深く、軒端に咲く梅一本に両家の春を見せて、薫りも分ち合ふ中村、園田と呼ぶ宿あり。園田の主人は一昨年なくなりて、相続は良之助、廿二の若者、何某学校の通学生とかや。中村のかたには娘只一人、男子もありたれど、早世しての一粒ものとて、寵愛はいとど手のうちの玉、かざしの花に吹かぬ風まづいとひて、願ふはあし田鶴の齢ながかれとにや、千代となづけし親心にぞ見ゆらんものよ。栴檀の二葉、三つ四つより、行末さぞと世の人のほめものにせし姿の花は、雨さそふ弥生の山、ほころび初めしつぼみに眺めそはりて、盛りはいつとまつの葉ごしの月いざよふといふも、可愛らしき十六歳の高島田にかくる、やさしきなまこ絞り、くれなゐは園生に植てもかくれなきもの、中村のお嬢さんと、あらぬ人にまでうはささるる、美人もうるさきものぞかし。

(福岡意訳)中仕切りは建仁寺垣だけで、庭の井戸も二軒で使い、軒端に咲く一本の梅も両家で眺め楽しんで、親しく清い交際をしている中村、園田という二軒があった。園田の主人は一昨年亡くなって跡継ぎは良之助という二十二歳の若者で何某学校の通学生だという。中村の方は娘が一人。男の子もあったが早死にしてからは一粒種でもあり可愛がることは掌中の珠のようで、かんざしを吹く風にもあてず、千年の寿を保つという鶴のように長生きしてほしいというのか、千代と命名したのも親心のあらわれか。栴檀は双葉より芳しいというが、三つ四つの頃から将来はさぞ美人になるだろうと世間の人がほめるほど美しい姿は、雨もようの弥生の山にほころび初めた花のつぼみのようで、娘盛りはいつと待ち遠しいが、すでに十六歳の高島田の髪に隠れるなまこ絞りの可愛らしさは、紅花は庭に生えても紛れることはないというが隠しようもなく、「中村のお嬢さん、お嬢さん」と関係のない人にまで噂をされる。美人も面倒くさいものよ。
 読んでみますと序詞、掛詞、縁語に類する表現、それから「歳は二八かにくからず」的な常套句、俗諺などを多用していることにお気づきかと思います。作中園田千代という娘が出てきて美しいとは言うのですが、どのように美しいのかと容貌を具体的に描写する表現はないのです。先ほど列挙したような修辞を織り込んだ美文を連ねて、読者になるほどお千代は美しい(ようだ)とイメージを持たせる書き方ぶりなのです。一葉が桃水に見せた『闇桜』の草稿というのがどんなものだったのかは残っていないので推測の域を出ませんが、桃水にアドバイスを受けて手を入れたのがこれなんです。一葉の教養の土台にあった平安文学を元にした「和文」趣味(王朝文学)が、彼の助言によって江戸近世期の「俗調」というか西鶴調に修正されたと言えると思います。

噂口と男性の視線

 次の『たけくらべ』の引用を御覧ください。
a 廻れば大門の見かへり柳いと長けれど、おはぐろ溝に燈火うつる三階の騒ぎも手に取る如く、明けくれなしの車の行来に、はかり知られぬ全盛をうらなひて、大音寺前と名は仏くさけれど、さりとは陽気の町と住みたる人の申き。(『たけくらべ』一)

(福岡意訳)ぐるっと回れば吉原大門の見返り柳はたいそう高く、ここからもおはぐろ溝に灯火の映る三階の遊客の騒ぎが手に取るように聞こえる。朝夕の別なくひっきりなしの人力車の往来に吉原遊郭の繁盛ぶりを推し量って、「大音寺前などと地名は抹香臭いが、これはまた陽気な町だわい」と住んでいる人の言うことだ。

b 柿色に蝶鳥を染めたる大形の浴衣きて、黒繻子と染分絞りの昼夜帯胸だかに、足にはぬり木履ここらあたりにも多くは見かけぬ高きをはきて、朝湯の帰りに首筋白々と手拭さげたる立姿を、今三年の後に見たしと、廓がへりの若者は申き。(三)

(福岡意訳)柿色に蝶と鳥の柄を染め抜いた大振りの浴衣を着て、黒繻子と染分絞りを腹合わせにした帯を胸高に締め、足には塗りの木履のここいらでも滅多に見かけないほど高いのを履いて、朝湯の帰りに白粉を真っ白に塗った首筋に手ぬぐいを引っかけた美登利の立ち姿を見て、「もう三年もして店に出た姿を見たいものだ」と郭の朝帰りの若い衆が噂をすることだ。

c 伯母さんあの太夫さん呼んで来ませうとて、はたはた駆けよつて袂にすがり、投げ入れし一品を誰れにも笑つて告げざりしが好みの明烏さらりと唄はせて、又御贔負をの嬌音これたやすくは買ひがたし、あれが子供の処業かと寄集りし人舌を巻いて太夫よりは美登利の顔を眺めぬ、(八)

(福岡意訳)「伯母さん、あの太夫さんを呼んできましょう」と言って、ぱたぱた駆け寄って袂にすがって投げ込んだおひねりの額を美登利は笑うばかりで言わないが、好きな新内の「明烏」を太夫にさらりと歌わせて「またご贔屓に」の嬌声を「大人だってめったに買える代物ではないに、あれが子どものすることかい」と舌を巻いて太夫より美登利の顔を眺める。
 『たけくらべ』に限らないのですが、一葉の小説では噂口や男の視線を借りる修辞というのが多いのです。たとえばaの最後の箇所「大音寺前と名は仏くさけれど、さりとは陽気の町と住みたる人の申き。」というところですね。また、ヒロインを登場させる時には、さらに多くなる。bはその典型です。「今三年の後に見たし」というのは、どっきりしますが、露骨にいえば、花魁になった姿を見たい、その時は金を貯めて買いに行きたいということですね。cですが、美登利の姉が大黒楼という遊郭の御職、ナンバーワン花魁だったので周りの者が気を遣って妹の美登利に小遣いをあげる。美登利も貰いつけていますからありがとうも言わずに受け取る。その金で美登利は近所の洟垂れ小僧どもにどんどん振る舞うのです。駄菓子屋にあるものを買い占めて配るとかするわけです。ここも流しの太夫が三味線を弾きながら歌って通るのを駄菓子屋で餓鬼どもと遊んでいた美登利が呼び寄せて、袂におひねりを放り込んで「明烏」を歌わせるという場面です。見ていた大人は、あれが十三、四の子どものやることかと舌を巻いて、太夫ではなく美登利の顔を見るという。

 こういう噂口だとか男の視線からの修辞というのが多いのです。これは初期の『別れ霜』という作品から、山梨の新聞に一葉が初めて載っけて、実質初めて原稿料をもらった『経づくえ』を経て、後期の名作『たけくらべ』に至るとますます多用されるようになっていく。この特徴について、フェミニズムの立場に立つ研究者はあまり触れないのです。都合が悪いのかなと思うくらいです。

 次にこういう資料があるんですね。これは一葉の妹・邦子さんの子孫の家にくしゃくしゃとなっていたものを広げて読んでみたらこんなことが書いてありました。通称「『ある人』との会話」と呼んでいます。
 ある人……小説はいかにして種をつくり給ふや
 一 葉……種をうりにくるものがある……いろいろの者がきてさまざまの話をしますので聞てお      きて其うちを題にしてかくものもあり、まるであとかたの無きものもあります
 調べてみたらこれは一葉の書いたものではないんです。萩の舎の同僚のもう一人の「夏子」、一葉も夏子ですから、伊東夏子がメモしたものなんです。一葉が小説を書くことになったときに、萩の舎の男性の師匠格の歌人に「どうやって小説の種を作るの?」と尋ねられた一葉がこう答えたというのを書き留めたものだったんです。これを見ますと、自分が取材をしておいた種を生かして書くというのです。これはどうなんでしょう。先ほどの噂口や男の視線を借りてヒロインを描いていくとか、持ち込まれた、あるいは見聞きした「種」を生かして小説を構成していくという手法は、ジャーナリストだった桃水の文章を作る時の手法なのではないのでしょうか。逆な言い方をすれば、明治二十年代という時代を思えば、男性の物書きだって水商売、芸人のたぐいと言われたです。女性の書き手はさらに少ない。一方、作品を受け止める読書界とでもいうべきカテゴリーでは女性が少ない。書き手も読み手も男性優位だったといえます。江戸時代の読み本なんかの読者層と少し違って、没落士族だとかの世をすねたインテリ層で教養的な素地はあるのだけれどもそれほど実社会で業績を挙げている人たちではなかったと思うんです。一葉が人の噂口や男の視線を借りて登場人物を描いたのは、時代の書き手、読み手が男性に偏っているというそんな読書会に自分の作品を認知させるために意識的にやった戦略だったのではないかという気さえするのです。

 他の方の書いた「梗概」を借りて私は一葉作品を紹介しましたが、これを読んだり、あらすじだけをなぞりますとね、なんだこりゃ、ちゃちで恐ろしく空疎で幼稚な空想的ストーリーじゃないかと思われる作品も多い。そんなに評価される作家、作品かと思ってしまいます。有名な『たけくらべ』だってストーリーらしいストーリーはないですね。季節の推移の中で起きる下町の子どものトラブル、彼等の心の変化とほのかな慕情が生まれて、やがて別離の時があるという叙情詩のような作品です。ストーリーだけをとるとなんだそれだけかということになってしまう。

 樋口一葉が登場人物形象を描く時は、人物の具体的な特徴を「描く」ことをせず、先ほどお話しした伝統的な修辞によって人物を周りからイメージで固めていくというやり方をする。それがなければ一葉の小説は本当に少女小説になってしまうたちのものです。後にプロレタリア文学から発する社会主義的リアリズム文学論、勝本清一郎氏や小田切秀雄氏まで続いていますが、彼等に一葉の小説は社会性がないとして評価されなかった原因でもあるのです。もちろん一方で現在のフェミニズム的な文学論を展開するような、社会の底辺の女性に向けた視線ということは指摘したのですが、あまりにも美的世界を狙いすぎていて時代や社会への視点がないというわけです。それというのも具体的な描写よりは伝統的な修辞で登場人物を「仮構」していくところへの不満ですね。一葉の小説は乙女チックで空想的なストーリーに男性の好色な視線だとか世間の噂だとか、あるいは屋敷の中の奉公人らの陰口で、それらは第三者、誰だか分からない第四者といった匿名の「声」だったりもしますが、これらによって仮構された人物は実在感やリアリティを与えられる。これが一葉小説のリアリティとなっているといえないでしょうか。

 さきほどの太夫さんにおひねりを与えて呼んで「明烏」を歌わせる。ここで誰かの声で「ちぇっ、子どものやることかい」と書き込むことで、読者に「まったく色街のませた娘だ」と思わせる。こういうリアリティが生まれるという仕組みです。この技巧を取ってしまえば、一葉の作品はおそろしく空疎な話になってしまうんです。これは意識してやったことだと思うわけです。

 さらに確信犯的手法も用いています。一葉は小説の中で、世間の噂、匿名の「声」に対する保留というか、疑義をも書き付けています。「そういうことを言う人がいるなんて」「あまりにも意地悪な世間だわ」とかですね。ここいらには「源氏物語」などのよき名残もあります。次の『経づくえ』の終わり方などもそうです。
 或る口の悪きお人これを聞きて、扨もひねくれし女かな、今もし学士が世にありて、札幌にも行かず以前の通り、生やさしく出入りをなさば虫づのはしるほど嫌がる事うたがひなしと、苦笑ひして仰せられしが「ある時はありのすさびに憎くかりき、無くてぞ人は恋しかりける」とにも角にも意地悪るの世や。

(福岡意訳)(プロポーズしたもののお園に受け入れてもらえないまま、松島は札幌の病院に赴任し、現地で死んでしまった。お園は松島にもらった指輪は指にはめ、経机に線香の煙が絶えることはない。)
或口の悪い人がこれを聞いて「それにしてもひねくれた女だわい。今でも松島学士が存命していて、札幌に赴任もせず、前のように中途半端なまんまで出入りをしていたとすれば、お園はきっと虫ずが走るほど嫌がるに違いない。」と苦笑いをしながらおっしゃったが、「源氏物語」の歌を借りれば「生きている間は慣れきって素っ気なくしていたが、その人が亡くなってみると恋しくてならない」というところだろうとか、とかく色々言い立てる世間は意地悪なことよ。
 これは女主人公お園を皮肉な目で見るであろう世間へのプロテストであると同時に、女だてらにこんなものを書いて、しかも割合空疎なストーリーでなどと、自らの作品に予想される悪評へのへプロテクト、洒落のつもりではないんですが、ではないかと思ったりもします。

多声的文体の完成

 一葉は晩年に向けてこの手法というものを完成させていったと考えます。たとえば、『たけくらべ』『にごりえ』ではいろいろな人の声で小説ができています。多声的な文体、マルチボーカルと形容する人もありますが、彼女の小説には会話体が多く取り込まれる。その対話体によって、男・女、年齢、職業、身分、立場というものによって細かい使い分けがされ、どういう人物かわかるようにできています。

 また、『たけくらべ』の何か所をみていただきたいのです。
「己れの為る事は乱暴だと人がいふ、乱暴かも知れないが口惜しい事は口惜しいや、なあ聞いとくれ信さん、去年も己れが処の末弟の奴と正太郎組の短小野郎と万燈のたゝき合ひから始まつて、夫れといふと奴の中間がばらばらと飛出しやあがつて、どうだらう小さな者の万燈を打こわしちまつて、胴揚にしやがつて、見やがれ横町のざまをと一人がいふと、間抜に背の高い大人のやうな面をして居る団子屋の頓馬が、頭もあるものか尻尾だ尻尾だ、豚の尻尾だなんて悪口を言つたとさ、己らあ其時千束様へねり込んで居たもんだから、あとで聞いた時に直様仕かへしに行かうと言つたら、親父さんに頭から小言を喰つて其時も泣寝入、一昨年はそらね、お前も知つてる通り筆屋の店へ表町の若衆が寄合て茶番か何かやつたらう、あの時己れが見に行つたら、横町は横町の趣向がありませうなんて、おつな事を言ひやがつて、正太ばかり客にしたのも胸にあるわな、いくら金が有るとつて質屋のくづれの高利貸が何たら様だ、彼んな奴を生して置くより擲きころす方が世間のためだ、己らあ今度のまつりには如何しても乱暴に仕掛て取かへしを付けようと思ふよ、だから信さん友達がひに、それはお前が嫌やだといふのも知れてるけれども何卒我れの肩を持つて、横町組の恥をすゝぐのだから、ね、おい、本家本元の唱歌だなんて威張りおる正太郎を取ちめて呉れないか、我れが私立の寝ぼけ生徒といはれゝばお前の事も同然だから、後生だ、どうぞ、助けると思つて大万燈を振廻しておくれ、己れは心から底から口惜しくつて、今度負けたら長吉の立端は無い」と無茶にくやしがつて大幅の肩をゆすりぬ。「だつて僕は弱いもの。」「弱くても宜いよ。」「万燈は振廻せないよ。」「振廻さなくても宜いよ。」「僕が這入ると負けるが宜いかへ。」「負けても宜いのさ、夫れは仕方が無いと諦めるから、お前は何も為ないで宜いから唯横町の組だといふ名で、威張つてさへ呉れると豪気に人気がつくからね、己れは此様な無学漢だのにお前は学が出來るからね、向ふの奴が漢語か何かで冷語でも言つたら、此方も漢語で仕かへしておくれ、あゝ好い心持ださつぱりしたお前が承知をしてくれゝば最う千人力だ、信さん難有がたう」と常に無い優しき言葉も出るものなり。(『たけくらべ』二)
 これは鳶の倅の長吉の長台詞からはじまっています。ここからは長吉の父親が頭でそれを笠に着て倅が腕白を働き、虚勢を張っていることが分かります。それに育英舎に通う横町組と公立の学校に通う表町組の子供たち同士の中に対立のあることが分かります。後半の藤本信如とのやりとりでは、気の弱い優等生的な姿が手に取るように分かります。一歳年下なんですが、長吉も学力優秀な信如には一目置き、横町組のプリンスになっていることも分かります。小説全体を読んだ方には、俗物きわまりない父親と信如との対照が際だって感じられる箇所でもあります。
 「三五郎は居るか、一寸来てくれ大急ぎだ」と、文次という元結よりの呼ぶに、何の用意もなく「おいしよ、よし来た」と身がるに敷居を飛こゆる時、「此二タ股野郎覚悟をしろ、横町の面よごしめ唯は置かぬ、誰れだと思ふ長吉だ生ふざけた真似をして後悔するな」と頬骨一撃、「あつ」と魂消て逃入る襟がみを、つかんで引出す横町の一むれ、「それ三五郎をたゝき殺せ、正太を引出してやつて仕舞へ、弱虫にげるな、団子屋の頓馬も唯は置ぬ」と潮のやうに沸かへる騒ぎ、筆屋が軒の掛提燈は苦もなくたゝき落されて、釣りらんぷ危なし「店先の喧嘩なりませぬ」と女房が喚きも聞かばこそ、人数は大凡十四五人、ねぢ鉢巻に大万燈ふりたてゝ、当るがまゝの乱暴狼藉、土足に踏み込む傍若無人、目ざす敵の正太が見えねば、「何処へ隠した、何処へ逃げた、さあ言はぬか、言はぬか、言はさずに置く物か」と三五郎を取こめて撃つやら蹴るやら、美登利くやしく止める人を掻きのけて、「これお前がたは三ちやんに何の咎がある、正太さんと喧嘩がしたくば正太さんとしたが宜い、逃げもせねば隠しもしない、正太さんは居ぬでは無いか、此処は私が遊び処、お前がたに指でもさゝしはせぬ、ゑゝ憎くらしい長吉め、三ちやんを何故ぶつ、あれ又引たほした、意趣があらば私をお撃ち、相手には私がなる、伯母さん止めずに下され」と身もだへして罵れば、「何を女郎め頬桁たたく、姉の跡つぎの乞食め、手前の相手にはこれが相応だ」と多人数のうしろより長吉、泥草履つかんで投つければ、ねらひ違わず美登利が額際にむさき物したゝか、血相かへて立あがるを、怪我でもしてはと抱きとむる女房、「ざまを見ろ、此方には龍華寺の藤本がついて居るぞ、仕かへしには何時でも来い、薄馬鹿野郎め、弱虫め、腰ぬけの活地なしめ、帰りには待伏せする、横町の闇に気をつけろ」と三五郎を土間に投出せば、折から靴音たれやらが交番への注進今ぞしる、それと長吉声をかくれば丑松文次その余の十餘人、方角をかへてばらばらと逃足はやく、抜け裏の露路にかゞむも有るベし、
(『たけくらべ』五)
 ここも印象的なところですね。表町組の本拠となっている駄菓子屋に長吉が殴り込みに行くところです。ここに表町のリーダー田中屋の正太が居るだろうと思って先制攻撃を掛けようと言うわけです。かわいそうなのは人力車夫の倅の三五郎です。貧しく子だくさんの家の三五郎は横町組の構成員なのに「生きる術」で表町組の正太ともつながっています。彼は「二タ股野郎」だというのでしたたか打擲されます。さらには美登利。彼女も花魁の妹であってみれば横町の構成員であるはずです。が、色と欲の渦巻くこの町で姉が御職を張り、全盛を極めており、美登利もやがては跡継ぎになるだろうということから「名誉表町組」となっています。それどころか、美貌に加えて、金離れのよさ、ここでも如実に現れていますが、気っ風と啖呵の良さで表町組のプリンセス、作中では「女王」と形容されています。けれども、所詮「何を女郎め頬桁たたく、姉の跡つぎの乞食め、手前の相手にはこれが相應だ」と泥草履を額に投げつけられる存在でしかないのです。誰も口には出さないけれど、これが美登利の実像であり、周知の事実であることには違いないのです。
 龍華寺の信如、大黒屋の美登利、二人ながら学校は育英舍なり、去りし四月の末つかた、桜は散りて青葉のかげに藤の花見といふ頃、春季の大運動会とて水の谷の原にせし事ありしが、つな引、鞠なげ、縄とびの遊びに興をそへて長き日の暮るるを忘れし、其折の事とや、信如いかにしたるか平常の沈着に似ず、池のほとりの松が根につまづきて赤土道に手をつきたれば、羽織の袂も泥に成りて見にくかりしを、居あはせたる美登利みかねて我が紅の絹はんけちを取出し、「これにてお拭きなされ」と介抱をなしけるに、友達の中なる嫉妬や見つけて、「藤本は坊主のくせに女と話をして、嬉しさうに礼を言つたは可笑しいでは無いか」、「大方美登利さんは藤本の女房になるのであらう」、「お寺の女房なら大黒様と言ふのだ」などと取沙汰しける、信如元来かゝる事を人の上に聞くも嫌ひにて、苦き顔をして横を向く質なれば、我が事として我慢のなるべきや、夫れよりは美登利といふ名を聞くごとに恐ろしく、又あの事を言ひ出すかと胸の中もやくやして、何とも言はれぬ厭やな気持なり、さりながら事ごとに怒りつける訳にもゆかねば、成るだけは知らぬ躰をして、平気をつくりて、むづかしき顔をして遣り過ぎる心なれど、さし向ひて物などを問はれたる時の当惑さ、大方は「知りませぬ」の一ト言にて済ませど、苦しき汗の身うちに流れて心ぼそき思ひなり、美登利はさる事も心にとまらねば、最初は「藤本さん藤本さん」と親しく物いひかけ、学校退けての帰りがけに、我れは一足はやくて道端に珍らしき花などを見つくれば、おくれし信如を待合して、「これ此様うつくしい花が咲てあるに、枝が高くて私には折れぬ、信さんは背が高ければお手が届きましよ、後生折つて下され」と一むれの中にては年長なるを見かけて頼めば、さすがに信如袖ふり切りて行すぎる事もならず、さりとて人の思はくいよいよ愁らければ、手近の枝を引寄せて好惡かまはず申訳ばかりに折りて、投つけるやうにすたすたと行過ぎるを、「さりとは愛敬の無き人」と惘れし事も有しが、度かさなりての末には自ら故意の意地悪のやうに思はれて、人には左もなきに我れにばかり愁らき処為をみせ、物を問へば碌な返事した事なく、傍へゆけば逃げる、はなしを為れば怒る、陰気らしい気のつまる、どうして好いやら機嫌の取りやうも無い、彼のやうな六づかしやは思ひのまゝに捻れて怒つて意地わるが為たいならんに、友達と思はずは口を利くも入らぬ事と美登利少し疳にさはりて、用の無ければ摺れ違ふても物いふた事なく、途中に逢ひたりとて挨拶など思ひもかけず、唯いつとなく二人の中に大川一つ横たはりて、舟も筏も此処には御法度、岸に添ふておもひおもひの道をあるきぬ。
(『たけくらべ』七)
 ここはちょっと意外な感じのするところですが、美登利と信如の幼いアリアが描かれています。そこでは幼いコケットリーと天真爛漫さを備える美登利と不器用で潔癖な信如がよく出ていて、次に引用するその後のぎこちない時雨の場面、水仙の造花のある別離の場面への布石となっています。
 お歯ぐろ溝の角より曲りて、いつも行くなる細道をたどれば、運わるう大黒やの前まで来し時、さつと吹く風大黒傘の上を抓みて、宙へ引あげるかと疑ふばかり烈しく吹けば、これは成らぬと力足を踏こたゆる途端、さのみに思はざりし前鼻緒のずるずると拔けて、傘よりもこれこそ一の大事に成りぬ。

 信如こまりて舌打はすれども、今更何と法のなければ、大黒屋の門に傘を寄せかけ、降る雨を庇に厭ふて鼻緒をつくろふに、常々仕馴れぬお坊さまの、これは如何な事、心ばかりは急れども、何としても甘くはすげる事の成らぬ口惜しさ、ぢれて、ぢれて、袂の中から記事文の下書きして置いた大半紙を抓み出し、ずんずんと裂きて紙縷をよるに、意地わるの嵐またもや落し来て、立かけし傘のころころと転がり出るを、いまいましい奴めと腹立たしげにいひて、取止めんと手を延ばすに、膝へ乗せて置きし小包み意久地もなく落ちて、風呂敷は泥に、我着る物の袂までを汚しぬ。

 見るに気の毒なるは雨の中の傘なし、途中に鼻緒を踏み切りたるばかりは無し、美登利は障子の中から硝子ごしに遠く眺めて、「あれ誰れか鼻緒を切つた人がある、母さん切れを遣つても宜う御座んすか」と尋ねて、針箱の引出しから友仙ちりめんの切れ端をつかみ出し、庭下駄はくも鈍かしきやうに、馳せ出でゝ椽先の洋傘さすより早く、庭石の上を伝ふて急ぎ足に来たりぬ。

 それと見るより美登利の顔は赤う成りて、何のやうの大事にでも逢ひしやうに、胸の動悸の早くうつを、人の見るかと背後の見られて、恐る恐る門の傍へ寄れば、信如もふつと振返りて、此れも無言に脇を流るゝ冷汗、跣足に成りて逃げ出したき思ひなり。

 平常の美登利ならば信如が難義の体を指さして、「あれあれ彼の意久地なし」と笑ふて笑ふて笑ひ抜いて言ひたいまゝの悪まれ口、「よくもお祭りの夜は正太さんに仇するとて私たちが遊びの邪魔をさせ、罪も無い三ちやんを擲かせて、お前は高見で采配を振つてお出なされたの、さあ謝罪なさんすか、何とで御座んす、私の事を女郎女郎と長吉づらに言はせるのもお前の指図、女郎でも宜いでは無いか、塵一本お前さんが世話には成らぬ、私には父さんもあり母さんもあり、大黒屋の旦那も姉さんもある、お前のやうな腥のお世話には能うならぬほどに、餘計な女郎呼はり置いて貰ひましよ、言ふ事があらば陰のくすくすならで此処でお言ひなされ、お相手には何時でも成つて見せまする、さあ何とで御座んす」、と袂を捉らへて捲しかくる勢ひ、さこそは当り難うもあるべきを、物いはず格子のかげに小隠れて、さりとて立去るでも無しに唯うぢうぢと胸とゞろかすは平常の美登利のさまにては無かりき。



 此処は大黒屋のと思ふ時より信如は物の恐ろしく、左右を見ずして直あゆみに為しなれども、生憎の雨、あやにくの風、鼻緒をさへに踏切りて、詮なき門下に紙縷を縷る心地、憂き事さまざまに何うも堪へられぬ思ひの有しに、飛石の足音は背より冷水をかけらるるが如く、顧みねども其人と思ふに、わなわなと慄へて顔の色も変るべく、後向きに成りて猶も鼻緒に心を尽すと見せながら、半は夢中に此下駄いつまでも懸りても履ける様には成らんともせざりき。

 庭なる美登利はさしのぞいて、「ゑゝ不器用な彼んな手つきして何うなる物ぞ、紙縷は婆々縷、藁しべなんぞ前壷に抱かせたとて長持ちのする事では無い、夫れ夫れ羽織の裾が地について泥に成るは御存じ無いか、あれ傘が転がる、あれを畳んで立てかけて置けば好いに」と一々鈍かしう歯がゆくは思へども、「此処に裂れが御座んす、此裂でおすげなされ」と呼かくる事もせず、これも立尽して降雨袖に侘しきを、厭ひもあへず小隠れて覗ひしが、さりとも知らぬ母の親はるかに声を懸けて、「火のしの火が熾りましたぞえ、此美登利さんは何を遊んで居る、雨の降るに表へ出ての悪戲は成りませぬ、又此間のやうに風引かうぞ」と呼立てられるに、「はい今行ます」と大きく言ひて、其声信如に聞こえしを恥かしく、胸はわくわくと上気して、何うでも明けられぬ門の際にさりとも見過しがたき難義をさまざまの思案尽して、格子の間より手に持つ裂れを物いはず投げ出せば、見ぬやうに見て知らず顔を信如のつくるに、ゑゝ例の通りの心根と遣る瀬なき思ひを眼に集めて、少し涕の恨み顔、何を憎んで其やうに無情そぶりは見せらるゝ、言ひたい事は此方にあるを、餘りな人とこみ上るほど思ひに迫れど、母親の呼声しばしばなるを侘しく、詮方なさに一ト足二タ足ゑゝ何ぞいの未練くさい、思はく恥かしと身をかへして、かたかたと飛石を伝ひゆくに、信如は今ぞ淋しう見かへれば紅入り友仙の雨にぬれて紅葉の形のうるはしきが我が足ちかく散ぼひたる、そゞろに床しき思ひは有れども、手に取あぐる事をもせず空しう眺めて憂き思ひあり。(『たけくらべ』十二〜十三)
 表町組の正太も気になる存在です。高利貸しの祖母が高齢で不自由なのを手助けするのを義務と感じていて、取り立てまで廻っています。金には困らず、表町のリーダーですが、内面的に弱いところは否めません。ですから、美登利に常に気を遣っています。次の場面は美登利が肉体的にも大人に変身して、ということは初店が近づくということですが、ブルーになっているのにとまどいが隠せない箇所です。
 正太は恐る恐る枕もとへ寄つて、「美登利さん何うしたの病気なのか心持が悪いのか全体何うしたの」、と左のみは摺寄らず膝に手を置いて心ばかりを悩ますに、美登利は更に答へも無く押ゆる袖にしのび音の涕、まだ結ひこめぬ前髪の毛の濡れて見ゆるも子細ありとはしるけれど、子供心に正太は何と慰めの言葉も出ず唯ひたすらに困り入るばかり、「全体何が何うしたのだらう、己れはお前に怒られる事はしもしないに、何が其様なに腹が立つの」、と覗き込んで途方にくるれば、美登利は眼を拭ふて「正太さん私は怒つて居るのでは有りません。」

 「夫れならどうして」と問はれゝば憂き事さまざま是れは何うでも話しのほかの包ましさなれば、誰れに打明けいふ筋ならず、物言はずして自づと頬の赤うなり、さして何とは言はれねども次第次第に心細き思ひ、すべて昨日の美登利の身に覚えなかりし思ひをまうけて物の恥かしさ言ふばかりなく、「成事ならば薄暗き部屋のうちに誰れとて言葉をかけもせず我が顔ながむる者なしに一人気まゝの朝夕を経たや、さらば此様の憂き事ありとも人目つゝましからずば斯く迄物は思ふまじ、何時までも何時までも人形と紙雛さまとをあひ手にして飯事許りして居たらば嘸かし嬉しき事ならんを、ゑゝ厭や厭や、大人に成るは厭やな事、何故このやうに年をば取る、最う七月十月、一年も以前へ帰りたいに」と老人じみた考へをして、正太の此処にあるをも思はれず、物いひかければ悉く蹴ちらして、「帰つてお呉れ正太さん、後生だから帰つてお呉れ、お前が居ると私は死んで仕舞ふであらう、物を言はれると頭痛がする、口を利くと眼がまわる、誰れも誰れも私の処へ来ては厭やなれば、お前も何卒帰つて」と例に似合ぬ愛想づかし、正太は何故とも得ぞ解きがたく、「烟のうちにあるやうにてお前は何うしても変てこだよ、其様な事を言ふ筈は無いに、可怪しい人だね」、と是れはいさゝか口惜しき思ひに、落ついて言ひながら目には気弱の涙のうかぶを、何とて夫れに心を置くべき「帰つてお呉れ、帰つてお呉れ、何時まで此処に居て呉れゝば最うお友達でも何でも無い、厭やな正太さんだ」と憎くらしげに言はれて、「夫れならば帰るよ、お邪魔さまで御座いました」とて、風呂場に加減見る母親には挨拶もせず、ふいと立つて正太は庭先よりかけ出しぬ。(『たけくらべ』十五)
 美登利に何があったのか佐多稲子さんの初店説と初潮説と議論が分かれる箇所に続く部分です。読者がこういう議論に巻き込まれるのも一葉の近世的な修辞表現に引っかかっているのです。理由の分からぬ、けれども、女性にはもっともな理由があるのであろう、いらだちには私どもは年中悩まされております。これは冗談ですが、美登利の不条理な条理というようないらだちと正太の素朴な困惑。両者の会話から受けるリアリティはどうでしょう。初店か初潮か、そんな議論は文学作品を受け止める為には本質的なものではないでしょう。それより一葉の表現のリアリティの成功度こそ議論すべきなのです。私にはこの正太が長じて零落したとしたらという仮定の下に、『にごりえ』末尾の布団屋の源七の激情に駆られた暴発を想起するほどの現実味を感じます。

 一葉の小説では会話文のところで登場人物の背景までわかるように出来ているんじゃないかと思えるのです。しかも『たけくらべ』『にごりえ』ではまだ匿名の噂とか、鳶の親方の倅とか高利貸しの孫とか一部の人を除いて匿名の人の会話というのが多かったんですが、『われから』とか『十三夜』とかになってくると、屋敷で抱えている車夫とか、下男下女にも名前を与えることが起きてきます。つまり、発語者が明示されてきます。あるいは、『十三夜』では、これが芝居になるのが好まれる理由も分かるんですが、しまいには周りからの多声的な「声」が登場人物の運命さえ左右することが出てきます。まあこれは一葉だけの独壇場ではないと思いますが。坪内逍遙の『細君』なんかもこういう手法を取っているとは思いますが、一葉はこういう作り方を意図的にやっていたんじゃないかという気がしてならないんです。そして、その元は半井桃水が教示した作り方でもあるのかなという風に思います。

 さらに余計なことをいいますと、ここの場面がいいからといって引用しようとしますと、章をまたがって引用しなければならない。これは何なんでしょう? 新聞小説を意識しているのかなと思えるんです。もうちょっと読みたいところは次の章に委ねられることに気づいたのです。後へ後へつなげようとする意識があるなと感じるのです。

 最後になりますが、お話ししたいのは、樋口一葉の小説に出てくる人物というのは、長々『たけくらべ』の引用をしましたが、そこにでてくる少年達がその背景、世間まで想像させるような台詞になっていると思います。そういうことを考えると、別に男女の区別なく彼等を縛っている、あるいはこの抜け出せない境涯に落としている伝統化し、習俗化した「世間」というもの、これを一葉は撃とうとしているのではないか。男性女性、老若男女にかかわらず縛られ苦しめられ圧迫している世間というものを小説の中で表現している、このリアリティこそ一葉作品の意義ではないのか。これはただ女性だけの自立ということを狙って居たわけではないのではないか。

 半井桃水が朝鮮文学を紹介する中で、その根底に流れている「恨」という思いがあると言っています。単に文字どおりの恨み、怒り、弱さ、「哀号」と叫ぶ嘆きという要素ばかりでなく、反抗的な、あるいは抵抗的な要素を持った「恨」ですが、一葉文学の根底に流れているのはひょっとするとこれかもしれないと思っているのです。これまた一葉を新たに持ち上げすぎる言い方になるのかもしれませんが。

 フェミニズム的な一葉論を書いている人たちは、「日記」の次の一節を重視するんです。
 しばし文机に頬づゑつきておもへば、誠にわれは女成りけるものを、何事のおもひありとて、そはなすべきことかは。我に風月のおもひ有やいなやをしらず、塵の世をすてて深山にはしらんこころあるにもあらず、さるを厭世家とゆびさす人あり(略)我をしるもの空しきをおもへば、あやしう一人この世に生れし心地ぞする。我は女なり。いかにおもへることありともそは世に行ふべき事かあらぬか。(明治二十九年五、六月)
 ここを強調するんですが、実はここに先だつ部分に、次の処があります。
 たかが女に候もの、好い着物をきて芝居でもみたい位の望みがかなはねば彼のやうにぢれてゐるのであらう、といふやうな推察をされて馬鹿にされて嘲弄されてこれで五十年をやつさもつさに送つて、そして死んでしまふ事を思ふに其死ぬといふ事はおかしくてやつとほほゑまれ候
 この部分をフェミニズムの研究者達は、自分が女性であるために無力だということを悲観しているため息だ、そして、周囲に向かって女性をこういう立場に置くのはどうしてだと向かうのだというのです。けれども、前者の引用の前にはこういうことが書かれています。夢の中では自分の意思が思いのままに相手に伝えることが出来た。けれども、目が覚めてみると言えないこととか言ってはいけないことがたくさんあって誰にも分かってもらえそうにない気がする。この世で出会う人の内で自分の意思を理解して、自分の行動に協力してくれる友を見いだせない。これは自分が女だからだろうか。

 これは決して女性だから無力、非力だと言っているわけではないのですね。むしろ女性であるがゆえに意思が正しく受け入れられなくて、実現を拒んでいるということではないのでしょうか。

 さらに言えば、次の引用の示すとおり、明治二十九年のころの一葉を支配していたのは、彼女に先立って自死を選んだ北村透谷とも通じる、創造者、明察者としての宿命的な虚無刊だったのではないかとも思えるのです。特に最後の引用などは、ドストエフスキーの『罪と罰』のラスコリニコフの台詞を想起させるではありませんか。
 やうやう世に名をしられ初て、めづらし気にかしましうもてはやさるる……うれしいなどいはんはいかにぞや、これも唯めの前のけぶりなるべく、きのふの我と何事のちがひかあらん

 何事ぞ、おととしの此ころは、大音寺前に一文菓子ならべて乞食を相手に朝夕を暮らしつる身也……草端の一蛍、よしや一時の光をはなつとも、空しき名のみ、仇なるこゑのみ

 おもしろしと思ふ事もなし、筆とりてものいはんといふやうな力を入るることもなし

 日々考へて居り候、何をとの給ふな、ただ考へて居るのに候
 最後に最近藪さんが最近の対談で発言している内容(藪禎子・座談会「樋口一葉―これまでの、そしてこれからの」より「国文学・解釈と鑑賞」二〇〇三・五 至文堂)を紹介しますとこうです。時代を超え男女を超えて読者を引きつける所以というのが、女性云々ということを強調しすぎることだけで説明できるとは思わない。常に「自らの性的差異に伴うバイアスを意識化した上で、書き手である一葉の性的差異に伴うバイアスを測定して読む」、藪さんがアイロニカルに引用しているとおり、なんだか分かりませんが、こういう女性一葉だから女性について言えることだとばかりいえるものではないのじゃないか。

 不十分な発表しかできませんでしたが、もうちょっと作品そのものを読んで面白いものは面白いという言い方をしてもいいのではないかということです。一葉研究会では言いづらいことですから、ここで言わせていただこうかということです。
(二〇〇三年十一月三十日・山梨文芸協会第27回講座)

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