

INDEX
はじめに
音楽のように小説を書きたい
「ガール」と呼ばれた少年
「二人で仲良く遊びましょう」
六年間は遊ぶこと
無邪気に、しかも容赦なく
ヴァイオリンとギターラ
ジミー川上と桃原青二
山の中のような小説
『楢山節考』ノ衝撃
風変わりな出版祝賀会
災難みたようなこと
言わなければよかったのに
夢ものがたり
流浪
風が風、雨が雨
一のこやしはあるじの足あと
死ぬリハーサル
人知れぬニヒリズム
お山まいり
深沢七郎のことを語ろうとする時、その死から始めるのはいささか気がひけるが、同時にもっともふさわしいのかもしれない、とも思う。
昭和六十二年八月十九日の新聞は、いっせいに「特異」な作家、深沢七郎の死を大きく報じた。「毎日」には、深沢の若い文学仲間である立松和平が、こんな談話を載せた。
若い時から常に死をテーマに書いてきた人ですし、この世に執着のない人でしたが、私にはショックです。案外ご本人は笑っておられる気がします……。ジャズのレコードをバックに深沢さんがお経をとなえ、テープにとったこともありますが、死を相当に意識していたようでした。いつまでも輝き続けるでしょう。
その後も文芸誌などが特集を組み、追悼の座談会や、回想文がおびただしく紹介された。親しかった人々はともかくとして、ジャーナリズムの記事には、相変わらず「土俗(的)・土着(的)・特異・異色・反骨・孤高」などの文字があふれていた。なかには「仙人・異端」などという表現さえあった。
長年の愛読者で、その一挙一動も見逃すまいとして、埼玉に押しかけたいと願い、押しかける自称崇拝者にへきえきしていると聞いてはひるむ−そんな私は、ジャーナリズムが死後の深沢七郎に貼りつける数々のレッテルに、いっそう喪失感を深めるばかりだった。違うんだ、と叫び出したかった。
親しい人たちの語る七郎像は、さすがに畏敬や追慕の念に彩られていた。が、それらも一面の描写にすぎずジャーナリスチックな好奇心をいっそうあおる役にしかならなかった。深沢七郎の本当の理解者は、あの時も、沈黙していたように思う。ひと言で語るなんて、しょせん出来っこない。そんな思いで。
参列する気も起こらず、知人に代わりに行ってもらった葬儀の「光景」も、私には深沢七郎の最後のいたずら、イロニカルな「作品」と思えた。プレスリーや「新世界より」の音楽に、七郎自身の読経の声が交じり、焼香に訪れた人たちは、どこにどのように在ったらいいのか、戸惑ったという。
深沢七郎くらい、一生誤解と偏見のなかに生きた人はいなかったのではないだろうか。周囲が−文壇も含めて−深沢の言動でからかわれ、幻惑されていた、と言ってもいい。
山梨でも、東京でも、身近な人たちのたくさんのエピソードが残っている。そういう人たちは、七郎の生前はもとより、没後も、聞かなければ話そうとしない、話す必要も感じていない人たちである。当然、作品も目の前にある。それらのいくつかを拾い集めて、できるだけ誠実に、深沢七郎の風貌に迫ってみたいと思う。七郎に気づかれぬうちに。
深沢七郎の文学のスタイルやリズム、構成は、彼の体に染みついた音楽(彼は「ミュージック」と言うのを好んだ)を抜きにして語ることはできない。初めて書いた小説の題は『アレグロ』だった。
音楽ではアレグロというのは速さだけではなく音の質である。早く鋭角的な音で出てくる曲なので、私はそんな味の小説を書きたかったのだった。
「アレグロ」の理解も傾聴に値するが、七郎には文学も音楽も一つであることはさらに大事だ。実際に仕上がった『アレグロ』は、少年の恋愛物で、すぐに破ってしまったという。
音楽の「ロンド」とか「フーガ」とか「変奏曲」のような型を小説の構成に使いたいのが小説を書きたい一番の魅力だが、どれもうまく出来上がらなかった。
ロカビリーが流行するようになってびっくりした。マンボ・ウェスタンも同じで、彼らの瞬間的な、強烈な、二分間か三分間だけの小品物だが自分だけの勝手な、ゴキゲンになりさえすればいい方法、つまり、勝手に、好きな部分だけしかないミュージックにびっくりしたのだった。耳で聞いて頭で考えるという音楽ではなく、体で受ける演奏方法にも驚いた。……私はマンボやウェスタンのような小説を書きたくなった。
彼の小説談義には、この類の、音楽のように小説を書きたいという願望が、至るところに現れる。
深沢七郎がギターを始めたのは、大正末、旧制日川中学(現日川高)一年のころだった。甲府の楽器屋にあった中古ギターの形、美しさに、七郎は魅せられてしまったのである。十四円五十銭という値は、米が十キロ三円二十銭で買えたことを思えば、途方もなく高値だった。印刷業を営む父親にせがんで、七郎はギターを手に入れる。六十年にもおよぶギター人生の始まりである。
ギターはまだなじみもうすく、七郎が弾いていると「なんちゅうもんで?」とか「いい音のするもんだね」と言われるのがしばしばだった。家は旧甲州街道の石和宿、道の傍らである。通り掛かりのひとが大勢立ち止まっては耳を傾けるという有り様だった。弾きだすと「まっと弾いとくんなって(もっと弾いてください)」とせかされる。七郎は人に聞かせるためにうまくならなければならなかった。もともと巻物をくわえて仁木弾正よろしく六方を踏むようなお道化者の素質もあった。七郎はギターも人に聴かせたいと思うようになっていった。
ギターを弾くことは病むことと同じだと私は思う。どう抵抗しても弾くことはやめられない。…小説を書くことも、また、病気だと思う。…ギターも小説も病気だけれども楽しい。
日川中学校時代の深沢七郎は、もっぱらギター、それに父親の影響で芝居、浄瑠璃、映画ざんまいだった。頼まれて、知人宅にギターを弾きに行くこともあった。
東京都保谷市に住む一宮町出身の詩人、堀内幸枝さんは、当時の七郎を覚えているひとりである。
笛吹川の土手、松林の一隅で、学校をさぼったのか、中学生が女学生だった堀内さんをからかう。七郎と、同じ日川中に通うギター仲間の太田孝だ。七郎は学校できめられた靴をふり分けで肩にかけ、下駄ばきでダテたばこをふかしながら徒歩で通っていた。ギターをつまびき、自作の歌を口ずさむ日々だった。
四月生まれを一月生まれにして、一年早く学齢を迎えたのだから、小柄で童顔、色白、どちらかといえばひ弱な少年だった。武田家滅亡の際の土屋惣蔵片手斬りの奮戦譚も残り、「健児」を誇り、バンカラでならした日川中学生徒の中では、七郎は異色だった。
五人兄弟の下から二番目、お母さん子、お婆さん子の甘えん坊なところと、角膜炎のせいで片眼が不自由というハンディキャップもあった。典型的な内弁慶だった。当時七郎に与えられた「ガール」のあだ名も、こんなところに由来するのだろうか。
それから二十七年後の昭和三十三年、深沢七郎は母校を訪れる。日川高校の文芸部誌「文園」に七郎の印象記が載っている。
校庭に出ると、北方の庭のまん中に四本のポプラの木が並んで立っているのは素晴しかった。……ボクが目を見張ったのは、この四本のポプラと、プールの水の綺麗だったこと、女生徒の髪の毛と瞳の美しかったこと、それからキタナイ衣裳の男生徒が表情と動きが明るく生き生きしていたことだ。これは、田舎の小説を書いていたボクが、いつか都会人の眼になっていたことに気がついたので怖くなってしまった。…ボクの眼はもうケガレているのだと思うと急に心細くなってきた。…私は母校へ行って、自分のみじめな姿を発見したのだ。帰りながら、手を振ってくれた生徒だちに感謝の念で一杯だった。もっと、ちょいちょい遊びに来させて貰いたいものだと思った。遠足などには卒業生も一緒に、などと想像しているうち瞼がうるんできた。まるで、ぬけがらのような自分を鏡にうつして眺めるように悲しい母校訪問なのだ。
『楢山節考』で文学界に衝撃を与えて二年目。苦しみぬいてこの年の四月に刊行した『笛吹川』は、花田清輝、平野謙、本多秋五、江藤淳ら、気鋭の批評家をまき込む論争の中にあった。
深沢七郎にとって、日川は、やはり、母校なのであった。
東山梨郡勝沼に在住の詩人、曽根崎保太郎さん(本名・鈴木保)は、深沢七郎と日川中学の同級である。
曽根崎の手もとに、昭和五年、日川中在学中の回覧雑誌「子供の街」が一冊だけ残されている。文字、それに色鉛筆で彩色がほどこされたイラストも、曽根崎の手書き。発行所は「葡陵萄源一八四四番地『子供の街』童謡研究会」となっている。実際にこんな住所はない。中国古典に現れるユートピア「武陵桃源」のもじりだろう。いかにも後年の葡萄園の詩人、「園丁詩人」曽根崎保太郎にふさわしい発行元ではある。会員はほかに、鈴木公臣、鈴木俊一、山下芳夫、水上政信、芹沢暮帆、大沢緑村、津島直義、平塚半蕾、小菅春秋となっている。
深沢七郎は会員ではなかったが、「妃血楼(ひちろう)」のペンネームで、こんな唄を寄せている。
冬の夕ぐれ
街の通りに灯がついた
荷馬車がつづいて通ります
いそがしさうに自転車が
夕風きつてすぎてゆく
お寺の鐘がなりました
雀もおうちへ帰ります
ペンネームが奇怪なのにくらベ、唄は、どこか大正期の童謡を思わせて、のんびりしたふんい気がある。
七郎は、こんな詩句を紙片に書きつけることもあったが、たいていは、書くそばから破り捨てた。彼はもっばら友人の詩に譜をつけた。とくに曽根崎の家にはひんぱんに現れ、夜更けまで「作詞曽根崎保太郎、作曲深沢七郎」の童謡、歌謡曲づくりで遊んでいた。
音楽も曽根崎の方が先行していた。日川中生による本格的なハーモニカ合奏団に参加し、各地で演奏会を開いていたのである。作曲をしていた七郎が、いつしかギターで作品を聴かせるようになり、しまいにはレコードまでこしらえて持ってくるようになった。長足の進歩ぶりである。
日川中卒業後、まだ日中戦争が始まっていないころ、曽根崎あての七郎の葉書には、こう書かれていた。
今日は玉稿有難うござゐました。とてもうまくなつちやつてうれしくてたまりません。丸山さん(歌手・丸山和歌子)は一寸来たばかりで今は来ません。又今度逢った時一緒に活動見物に行きませう。くれはいそがしくひるは印刷屋をしてゐます。夜はジャンジャン研究してゐます。…今度は夜曲をぜひ御奮闘して下さい。それから、「二人で仲良く遊びませう」と云ふ題を考へましたがどうぞお願ひ致します。
曽根崎の「玉稿」とは歌詞であり、七郎が「ジャンジャン研究してゐ」るのは、音楽、とりわけギターである。彼の考えた可愛らしい題(?)は、童謡のそれだろう。曽根崎さん曰く、
「深沢が作家になっていくというのは、若いころの志向、関心からいえば、まったく想像のつかぬ世界へ入っていったという印象でしたね」
昭和二年(一九二七)、日川中学を卒業した深沢七郎は、商家のならわしで住み込みの奉公のために上京する。印刷屋ではなく、後楽園近くの薬屋だった。三か年の約束だったが、一か月でやめて、今度は日本橋のパン屋に移る。ここも仕事がきつく、一週間しかもたなかった。
ギターを本格的に習いたいというのが、七郎の本音だった。中野のアパートに住んだり、帰郷して家業を手伝いながら、四竈(しかめ)清子、小倉俊、佐藤(横山)志智子にレッスンを受ける。日本のクラシックギターの草分けの人々だ。なかでも、佐藤には以後もリサイタルのたび、指導を受けることになる。
その頃、健常だった左眼の視力を失い、二か月間、全盲の状態が続くという体験もした。
すべてのものを失ってゆく気持ちは(死ぬ時は)こんな気分だろうと覚悟を決めていたのだった。
二十歳になった昭和九年(一九三四)、肋膜炎を患い、医師には「ロクマク六年」と告げられる。六年間は「遊ぶ」ことにして、ギターに明け暮れた。
徴兵検査は丙種合格だったが、病後の再検で不合格となる。「病人」をPRすることに努めた。それでも、十二年に日中戦争が始まってからは保険会社に勤めた。
十四年、七郎は初のリサイタルを丸の内の明治生命講堂で開く。ギターリサイタルはまだ珍しかった。入場料は一円二十銭。三百人ほどが切符を買い、あとは招待客だった。二時間をガット弦でもたせることは無理なので、プロのギタリストとして初めてナイロン弦を使った。
メンデルスゾーンの『無言歌』、小栗孝之の『古代日本の旋法による前奏曲・箜篌(くご)』、アルベニスの『グラナダ』『カヂス』、タルレガの、『アルハンブラの思い出』などを弾いた。後に彼が編んだ『ギター愛奏曲集』に収められた作品ばかりだ。
とりわけ七郎は、小栗孝之を、スペイン系クラシックの亜流を脱し、本当の日本のギター曲を創り出した人として敬愛していた。小栗は、十八年、太平洋戦争に応召、翌年、レイテ島で三十四歳で戦死。行李一杯の譜面は戦火に焼け、喜々として写譜した七郎と師の小倉俊の手もとに数十曲が残っていた。出征直前まで手直ししていた難曲『紡ぎ歌』は、昭和四十八年、七郎のレコード『ギター独奏集・祖母の昔語り』の冒頭に蘇った。このアルバムからは、七郎の思いの深さとともに、彼のギタリストとしての技量が一流だったこともわかる。小柄だから指も人並みはずれて長いわけでもない。小栗の運指法をマスターし、あえて右手指の爪を切り、指頭だけで弾くことを、彼は身につけた。
ジャケットにこう記す。
ギターを弾いて、それでも足りない表現は小説を書いて表現してきたようだ。表現というのは、絵をかくようなことだった。とにかく、私はなんとなくギ夕−を弾いて、小説を書いて、ひとりでたのしんでいた。
昭和十七年四月、東京初空襲。深沢七郎はアパートを引き払って帰郷する。「男が疎開なんて」というかげ口の聞かれるころだった。
勤労動員暑に勤めて徴用を避け、ギター、それに小説を試作する毎日だった。
『三つのエチュード』に、当時の七郎の習作の名残がうかがえる。本当はだれが正常でだれが異常なのか判然としない、恐ろしくも美しい『月のアペニン山』には、「サスペンスの練習に」の傍注がある。子捨てを題材とした『南京小僧』には「ナラタージュの練習に」とある。人の業欲と棄老を扱った『魔法使いのスケルツォ』には「ずっと昔、戦時中だったかな、諧謔小説を書こうとして」と記されている。
ここには、後年『楢山節考』や『笛吹川』『庶民烈伝』『みちのくの人形たち』などで七郎が扱ったテーマ、扱った〈姿勢〉の原型がすでに現れている。佐伯彰一はこれを、次のようにまとめている。
「人間的な責任」上、見てはならぬもの、たとえ見えても、目をつぶり、口をつぐんでしまわねばならぬものまで、無邪気に、しかも容赦なく見てしまう。責任や関係にしばられぬ、無機的な眼といってよい。
父隣次郎は七郎の二十歳の時に亡くなっている。母さとじは、昔から七郎が詩歌や小説になずむことにいい顔はしなかった。ひとつには、他人の悪口や色欲、処世訓などを盛った田舎歌の卑俗さの印象が強かったからだった。もうひとつには、病弱で甘えっ子の七郎が、灯下、ぺンなどで肩を凝らせるのを恐れたためでもあった。
昭和十八年、「よく住所の変る男」と自称する深沢七郎は、東京の本郷東片町にいた。帰郷していた同級生曽根崎保太郎にあてた手紙は、以前七郎が勤めていた富国徴兵保険相互会社の便箋に書かれている。
…私の冬眠時代は、かへるとは一寸異(ちが)ふのは飛躍の前の一休止でせう。相変らず、子供の様な(コロノ)世界が忘れられず、少年時代の幻想で一杯です。貴兄はソロソロマゝになりますか。私は址(はず)かしき次第ですが、まだ、人生の義務をつくしてゐません。テフテフの様なものを相手にしているからだと兄に云はれ(オコラレ)そうですが、そりやあんまりですよ。
そんな気ではとつくにママになってゐますよ。やはり自分にもよくわからないけど、結婚用心病と云ふのでせうか、シン重をきしてゐるらしい。これを探求するとやはりヨカ女子の出現せないんぢやないでせうか。
やはり三十位になれば女の美さよりみにくさの方をめにつくのでせうね。
「マゝ」とは所帯持ちの意味だろうか。七郎の「結婚用心病」と『月のアペニン山』のモチーフを思い浮かべると、とても興味深い。
母親の心配があたったのか、終戦後、深沢七郎はまたもや肋膜を病む。母はもう七郎を東京に住まわせようとはしなかった。母と子は家業の印刷所とは別に、笛吹川の川っぷちで営む旅館「深雪」に暮らした。七郎は草花や野菜を少しばかりつくり、ヒョコの世話をしながら、近くの青年達にギターを教えた。
二十一年六月、七郎は勝沼で「ヴアイオリンとギターラの競演会」を催す計画を立てる。
ヴァイオリンは「甲府市常磐町水晶屋の息子−七沢八郎」。深沢七郎と七沢八郎である。七郎は小学校の講堂の借り受けを土地の友人曽根崎保太郎に依頼する。七郎自ら活字を拾ったのだろう、依頼の手紙には、すでに案内チラシが同封されていた。
広告文の一部。
◎さあ!! 皆さんどちらに応援しませうか? アンコールの下手なお方は聴き上手ではありません。応援野球のアンコールとはまた別な、音楽会の拍手の味。…
◎音楽会の会員券を親しき友にプレゼントしませう。
◎とも、と、ともに聴くクラシックのひとときを、真夏の静かなローマンスを作りませう。
曲目にも、一言ずつ解説がついている。こんな具合だ。
3・セレナータ(南国のきらめく星の宵の讃美)深沢七郎、セレナーデ(シューベルトは夜、孤独の果に呻く)七沢八郎
4・フアンタヂア(幻想も自由だ)深沢七郎、アベマリア(ナンマイダー)七沢八郎…
6・西班牙舞曲(人生の涙も湛へて)深沢七郎、ユーモレスク(諧謔か?)七沢八郎
「文芸春秋」の広告で、鎌倉在住の久坂栄二郎、新藤兼人、船山馨、丸尾長顕らが「新人作家集団」を始めたのを知ったのもそのころである。応募作品への返事に、丸尾はいつも七郎が作家になることを勧めていた。「ひどいことをすすめる」と母はうかぬ顔だった。
ギターの演奏でつき合いのあった甲府放送局のアナウンサー河村学而あてに、七郎はこう書き送っている。
この世をあまり有難がらない小生わ、この二三年をポカンとしているのです。でも愛する楽器を抱いて、ときどき幻想の世の中に飛んで行けるので、これだけは、皆さんにうらやましがられています。
七郎はいっしょに暮らす母の体が、ガンにむしばまれていることを知っていた。母親が苦痛に貴められているのを、なすすべもなく見守っていた。母の延命は苦痛を延ばすことでもあった。母は
「わしが変わった姿になっても、泣いたりしてはダメだよ」
などと言っては、息子を途方にくれさせた。亡くなる二十日ほど前のことである。母七十二、息子三十五だった。
昭和二十四年十月、深沢七郎は母を亡くす。父親に死なれた時は「ぞ−っとするような淋しさ」に襲われたが、母の死は七郎の気持ちを妙に楽にした。長い間肝臓ガンで苦しんでいた母が、極楽に済度されたような思いがしたのである。
七郎は上京、「ジミー・川上」の芸名でバンドに加わったり、行商などで各地を転々とする。
二十五年夏の石和の親友でギター仲間太田孝あてのはがきは、麻布局の消印、差出人は「東京で 風の又三郎」とある。
目下東京で漂然としています。そのうち落ちつきましたら確かな住所をお知らせします…こちらはあまり住みよくないが、やはり、何か都会的なシゲキが必要な小生には又収穫もあります。……クラシックギターは地方の方が一般的には盛んです。音楽家は不景気で特に他の人種より困っているらしいです……十月の母の一年忌には帰ります。その時までには落ち着くでしょう。
二十六年十一月のはがきは豊島区西巣鴨「武蔵生」とある。
来春はリサイタルをこちらでするつもりではり切っています。こんど帰ったときはきっときけるものがあると思います。カヂス、グラナダ、等完成しているつもりです。
二十七年、神田YMCAで戦後初のリサイタル。数えて十八回目だった。小説の指導をしてもらっていた丸尾長顕が、ギタリストの七郎を知ったのは、この時である。丸尾はヌード・ミュージカル専門の日小劇場の演出家だった。
二十九年正月から、丸尾の求めで、七郎は「一日だけの恋人」公演のスペイン景に「桃原青二」芸名でゲスト出演。五月までのロングランだった。
ヒロセ元美、伊吹まり、メリー松原、ジプシー・ローズ、奈良あけみ、春川ますみなど、容貌と技量で、今も伝説的存在となっている踊り子たちが多かった。ほかにもシャンソンの高英男や柳沢真一、コメディアンのトニー谷、EHエリック・岡田真澄兄弟など、バーレスク・シアターとしては一流だった。
友人太田あてのはがきも「桃原青二」の差し出しとなっている。それでも、二十九年中は、深川、渋谷と住まいが転々としている。日小劇場が日劇ミュージックホールと改称した三十年から、深川牡丹町に住居が定まる。
文学も忘れ去っていたわけではなかった。三十一年七、八月のはがきには、目下の七郎の関心がうかがわれる。
郷土資料(武田信玄の興亡)につき目下資料不足でさがしています…この夏はいささか創作も出来、兄に見てもらいたいものあります。今、武田家の興亡を、笛吹川のどん百姓の目で書いています。
小説『笛吹川』に連なる発想は、すでにこの時、始まっていた。
「老い」と「死」を扱った本が、近ごろ書店の棚に目立つ。医療技術が進み、なかなか死ねなくなっている時代の反映だろう。一方、齢を重ねても生の充足感が不足しているからこそ、指針を求めているとも言える。「生老病死」は技術でかたづくものではなく、やはり永遠に、思想、思いの問題なのである。
母親をみとり、みずからの病身を手なづけているうちに、深沢七郎は、こんな『楢山節』を口ずさむようになっていた。
おらんの父っちゃん身持ちの悪さ
三日病んだらまんま炊いた
おらんのばあやん納戸の隅で
鬼の歯を三十三本揃えた
かやの木ぎんやんひきずり女
せがれ孫からねずみっ子抱いた
山が焼けるぞ枯木ゃ茂る
行かざなるまいしょこしょって
夏はいやだよ道が悪い
むかで長虫やまかがし
年に一度のお山のまつり
ねじりはちまきでまんま食べろ
塩屋のおとりさん運がよい
山へ行く日にや雪が降る
この「節」が小説に育つのには、何年もかかった。いとこが嫁入りした東八代郡境川村大黒坂をたびたび訪ねるうち、七郎はこの村の人たちをすっかり好きになる。
教えられたとかいう細工を加えられた人間の生き方ではないもの、いかにして生きるべきかを自然にこの村の人たちは考えだしている…生きて行くぎりぎりの線上にわいた人情、風習−
昭和三十年二月の寒い夜、七郎はこの村を訪れた時の想像をもとに「ふっと」小説を書きたくなった。それが、長年あたためていた『笛吹川』でなく、『楢山節考』だったのである。これにはきっかけがあった。七郎は作家古山高麗雄にこう語る。
日劇の楽屋という裸の人がおし合いへし合いしている「豪華けんらん」な「生活」をしていたら、山の中が恋しくなった。小さな紙に「山の中のような小説」を書きつけていた、と。
巧まれた美−ミュージカルの楽屋にとじ込められていたから、七郎は大黒坂の人たちの「自然」な生き方を懐かしがった。踊り子たちの若さや生気が横益していたから、よけいに「生老病死」を思わずにいられなかった。こう考えれば、七郎が『楢山節考』を書き始めたのは、唐突どころか、当たり前のことだった。
ロずさんでいた『楢山節』を基本旋律に、小説としての肉づけをしていく。この作業はすぐにつまずいた。「節」はさまざまにアレンジされて小説に使うことにしていたのだが、気づいたら元唄がなかった。どこにでもあって歌われていそうな元唄。
七郎はひと晩がかりで元唄をこしらえた。
楢山まつりが三度くりゃヨ
栗のたねから花が咲く
深沢七郎の『楢山節考』第一稿七十枚は、二週間ほどでしあがった。石和の親友太田孝に送って読んでもらうことにした。
おりんが山に行く前夜の儀式−ここで楢山まいりの順路、心得が告げられる−について、七郎は助言を得たかったのである。太田は作品の舞台に設定された東八代郡境川村の大黒坂から春日山を実地に踏んでみた。
もちろん、習作期の師で日劇の演出家だった丸尾長顕にもアドバイスを求めた。
七郎は第一稿に手を入れ、百枚近い、終結が二つある第二稿にした。さらに楽屋でせっせと書き直し、八十八枚の最終稿になった。
七月、墨田の川開きの船上、七郎は丸尾に『楢山』を見せる。丸尾は始まったばかりの「中央公論」新人賞への応募を勧めた。七郎には、こんな作品が選ばれるわけがないと思われた。
選考委員は伊藤整・武囲泰淳・三島由紀夫の三人だった。武田は選考の雰囲気をこう述べる。
新人賞の第一回、いよいよ一篇を決めなければならないのだから、審査員の集まりは大がい憂鬱なものであるはずなのに、三名ともニコニコの笑顔で活気にみちていた。つまり「これなら大丈夫、まちがいなし」の応募作品がめいめい一つ見つかっていて、それが全く一致していたからだ。
七郎のもとへ電報が届く。
「トウセンスアシタ十ニジオイデコウ」
賞金十万円を受け取ったらその足で兄弟知人と温泉に行くつもりで、七郎は中央公論社を訪れる。印鑑持参で。応接に通され、編集者には
「どういうつもりで書いたんですか」
と尋ねられるわ、社長があいさつに出るわで、とうとう七郎は授賞式に引っぱり出される羽目になる。
オレは地獄へ行くつもりで出かけていって、泣いちゃったよ、イヤでね。オレ、よくいわれるけど、ネコかぶりでも何でもないんですよ。
異論はなかったものの、審査員の選後鼎(てい)談には、とまどいが隠しようもなくにじみ出ている。
武田曰く「民話のすごみというものをワクに」何かわからない「無抵抗の抵抗のような美しさ」がある。伊藤曰く「これがほんとうの日本人だったという感じがする…家族よりも伝統の規律に自分を合致させることによって生存の意義を味わう人間がいる」。三島日く「父祖伝来貧しい日本人の持っている非常に暗い、いやな記憶」のようなものがあり「総身に水を浴びたよう」に「こわい」。森鴎外の『阿部一族』のような「硬質」な美しさはない。
発言の当否もだが、三人ともこの作品に名状しがたい恐ろしさ、気味の悪さを覚えた点は注目に値する。七郎自身はごく自然な人情・風習として牧歌的に描いたつもりだったにもかかわらず。三人の審査貫はフランクル、ロルカ、ブリューゲル、折口信夫、木下順二、はては「伝統と現代文学」の問題まで持ち出して『楢山』を把えようと四苦八苦している。
世評でも『楢山節考』=〈残酷な姥(うば)捨て伝説〉という受け止め方が大方だった。
昭和三十一年、新人作家深沢七郎は四十二歳。〈誤解の半生〉の始まりである。
深沢七郎の『楢山節考』は発表直後から大きな反響をよんだ。めったに他人の作品をほめたことのない老大家正宗白鳥(当時七十八歳)まで
「人生悠久の姿がおのずから浮かんでいる」
と激賞した。その後も白鳥は度々言及している。
私はこの小説を面白ずくや娯楽として読んだのじやない。人生永遠の書の一つとして心読したつもりである。
と言い、「この作者はこの一作だけで足れりとしていいとさえ思っている」と言いきった。
昭和三十一年十二月に刊行された単行本は、たちまち二十五万部を売りきった。谷崎潤一郎の『鍵』に続いてベストセラーを出した中央公論社は、出版部独立のきっかけを得た。
翌年、出版記念会が開かれた。発起人は正宗白鳥、谷崎潤一郎、伊藤整、武田泰淳、三島由紀夫それに丸尾長顕、中央公論社長嶋中鵬二だった。ところは縁の深い日劇ミュージック・ホール。ときは二月二十五日午後五時から九時。真夜中一時から始まったとしている本もあるが誤りである。
招待状に「いささか風変わりな出版記念会」とある通り、ユニークな会だった。あいさつ、激励の言葉に続き、七郎の伴奏で泉徳右衛門、春名が「楢山節考」を踊った。さらに歌手伊籐久男が「楢山節」を、島倉千代子が「つんぼゆすりの歌」を歌った。これも七郎の伴奏。続いて延べ百五十人ほどのダンサー、ミュージシャンの友情出演で、一幕二十景からなる「ミュージック・ホール・グラン・ギャラ−M・Hの神武たち」が上演された。構成・演出岡田恵吉という本格ものである。
谷崎、舟橋聖一らはすでに劇場の常連だったが、他の作家たちには、初めて見るバーレスク・ショーである。一堂、おごそかに舞台をじっと見つめることになる。白鳥がかぶりつきで椅子にうずくまって無表情ににらみつけていたのが印象的だった。
「ヌードの踊りをまだ見たことがないんですよ…どうも、ああいう劇場へ入っていく勇気がないですよ」
七郎にこう言ったのは、『チャタレイ夫人の恋人』訳で被告人となっている伊藤整だった。七郎は、こんな人がワイセツなことを書くはずがないと確信した。
作者自身の話題性もあり、また、出版ジャーナリズムの思惑もあって、世間の次回作への関心も高まった。『楢山』の木下恵介メガホンによる映画化も決まった。
七郎の心境はどうだったのか。受賞直後、友人太田孝あてのはがきにこう書いている。
とうとうきびしい苦しい世界にとび込んでしまった。これからがえらい(大変な)ことだ。もう少し(二、三年)たってからと思っていたが、おかげで今年の予定がメチャメチャだ。次の作品発表しろと丸尾師より云われているが、手持ちはいやだ。それで苦しい。
ラジオ・ドラマも書く八代の定林寺住職川久保正郎にも、
「嵐の中に舟を出してゆくこの物好き男です。よせばよいのにとふりかへることもあります」
と書き送っている。
深沢七郎は『楢山節考』に続く作品を書き下ろしで勝負したいと考えていた。二作目も楽しみながら仕上げて、懸賞に応募するものと思い込んでいたのだ。
昭和三十二年一月、『東北の神武たち』を「中央公論」に発表。食と人の生死を扱った『楢山』にかわり、二作目は性の不充足がテーマだった。『神武』には七郎の母さとじをほうふつとさせる聖母おりんはいなかった。
出版社は執ようで、七郎は旧作『三つの工チュード』を「知性」に掲載、また、『日本風、支那風、江戸風、落語風…』といった『ポルカ』連作をさまざまな業界誌に発表した。
小説ばかりでなく作者への関心から対談の企画も多かった。井伏鱒二とは「ぼく井伏先生に会えてよかったなァ。井伏先生いいなァ、よかったなァ。」を連発、井伏が甲州の話をすると「ワァ、先生、何でもよく知ってるなァ、驚いたなァ」と心底感激、対談にはならない。謝礼を渡そうとすると血相変えて逃げ出し。丸尾長顕の立ち会いでようやく受け取った。
作品の書き下ろしには苦しんでいた。三月、川久保正郎あてのはがきには、箱根に逃避中で「あとはどこへ行くかわかりません」とある。六月の手紙では、
此の頃、作家なんて実にいやになりました。とてもとても災難みたようなことばかりつづき早く足を洗いたいものです。そんなわけで「笛吹川」も手つかずです。これも書かずに止めようかとも思っています。
とぐちをこぼす。早くより発想し、史料にも当たっていた「武田家の興亡を、笛吹川のどん百姓の目」で描く苦心である。
十月、『笛吹川』はやっと仕上がった。自信などない。「よいとわるいのすれすれの線をゆくという、僕だけがたのしむもの」だった。
『笛吹川』は再び大きな話題となる。ことに気鋭の文壇人には、近代文学の根底を振り返らせる契機となった。
『笛吹川』は決して楽しい小説ではない。武田信虎、晴信(信玄)、勝頼に翻弄される農民の一族。一族は笛吹川のほとり、虫かごのようなギッチョンかごの家に住む。六代にわたる生死の違環。畳の上で死んだのは、わずかに三人。定平を除いてだれも彼も、戦に、あるいは武士(信玄を含め)に殺され、また、病に倒れる。英雄的でも何でもない、犬死の永劫回帰。彼らはそれを嘆きも反抗もしない。七郎の筆は心理描写や叙事的説明を一切排除し、普通のことを普通のように書いていた。
目覚めた自我が「現実」の壁に衝突して挫析する−などという近代文学の陳腐な図式は、ここには到底通用しない。
江藤淳は同じ新人作家大江健三郎の『芽むしり、仔撃ち』を引き合いに出し、知識人の「抵抗」が『笛吹川』の農民の本能的な「憎悪感」を併せ持つことを願い、こうまとめた。
「笛吹川」を渡ることによって、はじめて真に強じんな「近代小説」を書くことができる。
花田清輝の言うように『笛吹川』はまさに、文芸で「近代の超克」を果たしていたのであり、アバンギャルドの端緒だった。
『笛吹川』を発表してから、深沢七郎のマスメディアでの仕事は、意に反して、ますます多忙になった。
『言わなければよかったのに日記』の刊行(昭三三・一○)。山下清画伯、踊る宗教教祖北村サヨ、事業家五島慶太、歌手江利チエミなど多彩な人々との対談。文士劇への出演……。
『言わなければ』は作家訪問記である。七郎の予測不能の言動によって、中堅、ベテランの作家たちは、素の顔をあますことなくさらけ出されている。
「椅子に腰かけて、両足をきちと揃えて」小学生のように、しかし「顔つきが変わったようになって、いくつもの新聞を、拡げて、隅から隅まで目をくばる」正宗白鳥。白鳥宅の池にスワンはいなかった。
持参した笛吹川の月見草を快く植えさせてくれ「ハァ、二度と添うまい作家の妻に/抱いて寝るさえ筆まかせ/アラ、ホラさのさ、ア、ドッコイショ」という小唄を黙って聞いてくれた「産婦人科のお医者さん」のような石坂洋次郎の夫妻。
野球は上品すぎて嫌、レスリングは乱暴でキライ、ギターはスポーツだという七郎のことばに妙に納得してしまう「実に、察しがよくて、頭のいい……通産省の役人」のような武田泰淳。「大学教授のような」伊藤整。「質屋のご隠居さん」のような井伏鱒二……。
本人の言動を扱いながら、マスコミは面白おかしい「深沢七郎像」をこしらえていった。虚実とりまぜた奇人、意識的か無意識なのかわからぬ変人というイメージである。本人は少しもとぼけているつもりはなかった。嫌なことを嫌と言い、変なことを変だと言い、分からぬことを分からぬと言ったまでのことである。
しつらえられた数々の舞台が憂うつだったのか、郷里との往復も頻繁だった。
昭和三十二年の八月には、地元新聞の記者、小林富司夫のきも入りで、石和の自宅に文芸誌「谺(こだま)」の同人との懇談会が設けられた。
翌年五月、石和から扇状地を上り、境川に俳人飯田蛇笏を訪れている。蛇笏七十三歳である。三十近く年の離れた二人のいろり端での話は、午後から夜に及んだ。敬愛する郷土の文学者に七郎がどんな話をしたのか、今となってはたどるよすがもない。没後刊行された蛇笏最後の句集『椿花集』には、こんな句が収められている。
『楢山節考』の著者深沢七郎氏来訪
爐(ろ)語りや五月八日の夜の情
井伏鱒二とも山梨でたびたび会っている。兄の自動車で、御坂峠に太宰治の碑をたずねたりもした。
井伏が武田泰淳を伴った桃の花見では、ガスコンロに茶が沸く間、七郎は『楢山節』を弾き語った。泰淳は感にうたれたように「泣かせるなあ」とうめいた。
その間にも、プレスリーの歌を三十以上も引用した『東京のプリンスたち』(昭和一四)、『楢山節考』のフランス語訳などが刊行されている。
日米安全保障条約の改定を翌年に控え、世情騒然とした年だった。
皇太子さまから相撲取りまで、有名人の縁談で大騒ぎだ。一方で「自主規制」、他方でどうかしたような無自覚で一様な報道。
昭和三十四年、現天皇陛下(当時皇太子殿下)が妃を迎えた際も、別の意味で大変だった。日本とアメリカとが〈運命共同体〉となる日米安全保障条約の改定は、翌年に迫っていた。国中が賛否をめぐって騒然としていた。一月、改定阻止国民会議結成。四月、皇太子殿下ご結婚。五月、藤山外相「在日米軍への攻撃は日本への攻撃とみなす」とワシントンで語る。九月、伊勢湾台風。
翌三十五年一月、日米安保条約調印。三井三池争議。五月、安保阻止国民会議の統一行動で十七万人が国会を包囲。六月、全学連が国会構内に突入、東大生樺美智子死亡。米大統領アイゼンハワーの訪日中止。十月、浅沼稲次郎社会党委員長、右翼少年に刺殺される。
深沢七郎の『風流夢譚(ゆめものがたり)』が「中央公論」に発表されたのは、十二月号だった。
作品は文字通りの「夢ものがたり」だった。
渋谷駅頭、暴動のうわさを聞く。町の人も警察も自衛隊もすべて革命側につき、皇居も占拠されている。広場では迷惑にも「私」のマサキリで皇太子御夫妻の首を切っている。難解な辞世の和歌。軍楽隊が「アモーレ・ミオ(死ぬほど愛して)」やペレス・プラードの「花火」をにぎやかに演奏し、打ち上げ花火が空をおおう。防人歌まがいの辞世の歌をこしらえた「私」はピストルで自殺する。「夏草やつわものどもの夢のあと」と寝言を言いつつ目を覚ましてみると、故障のはずの腕時計が夢の間中動いていた。
十一月二十八日、右翼団体が中央公論社に抗議。二十九日、官内庁「名誉棄損」の検討を法務省に依頼。これに先立つ十三日、七郎は五万円を懐に京阪地方に姿を隠す。十二月一日、中央公論社、宮内庁に陳謝。
不快な作品か、こっけいな作品か。文学的にすぐれているのか、否か。文壇では個人攻撃を含め、こんな批評が現れた。
中村光夫「スキャンダルとセンセーションが氏の計算」
平野謙「作者の知能程度は、むろん山下清などとは比較になるまい」
河上徹太郎「安怖」
荒正人「明治以後の国家宗教的教育への抗議」
中野重治「革命のイメージの弱さが間題」
佐伯彰一「どっちつかずの不潔さ」。
作品は社会現象化してきた。七郎のもとへは自決を促す手紙が殺到した。二月一日夜には、中央公論社社長、嶋中鵬二宅が右翼少年に襲われ、夫人が負傷、お手伝いさんが殺される事件にまで発展した。
文壇もマス・メディアも作品の評価はもとより、〈表現の自由〉論議も棚上げしてしまい、七郎は孤立無援となる。京阪地方から山陽、東北、北海道にわたる放浪が始まった。
「短歌の『風流』……和歌をもて遊ぶコッケイさ」をからかいたかっただけなのに……金属的な美しさを備えた寓話を描きたかっただけなのに……とつぷやきながら。
以後、七郎は
「ホトケさんが出ているからね」
と、作品の再掲載、著作集の収録を拒み続けている。
『風流夢譚』で「天誅」だとか「自決」だとか物騒な脅迫が殺到して、深沢七郎は居所を点々としなければならなくなった。親しい友や編集者には音信があったが、いつも私服刑事に護衛されており、体のいい監禁みたいなものだった。川久保正郎は回想している。
深沢さんもしまいにはネをあげて「ボクなんか死んでも殺されても、なんとも思わんから、つきまとうのはやめてくれ」。刑事の返事がふるっていた。「あんたなんか殺されたってかまわんさ。だが、あんたに万一のことがあると、こっちは警視庁をクビになって妻子が路頭に迷うのだ。護衛しているのは自分の生活だ」…深沢さんは自分のおかぶをうばわれたような顔をした。
三十六年八月、七郎は北海道にいた。川久保宛の葉書の差出人はひさびさに見る「桃原青二」だった。
さいはての、霧の根室にさまよって来ました。まったく、霧でガス燈のように見える程街燈の美しい町です。こちらはもう夏が終わるのです。ご心配やごぶさたをおわびします。今年は私ばかりのんきに涼しい生活をしてしまい申しわけない様です。当分、モッサリと寝てくらして、果報は寝て待つつもりです。
とは言いながらも「筆を折るのですか?」と記者に聞かれて、きょとんとした七郎である。
書くことをやめたわけではなかった。彼にとって小説はミュージックと同じく「病気」だし、うんこやおならと同じ生理作用なのである。やらねばとか止めねばとかいう、肩ひじ張ったものではない。表現したければするし、したくなければしない、それだけのことだった。
『流浪の手記』『流浪の記』が各誌に載った。『庶民烈伝』の序章である『おくま嘘歌』は三十七年六月。以後、『お燈明姉妹』(昭三八・九)『安芸のやくも唄』(昭三九・一)と『烈伝』は書き継がれていく。三十九年には『千秋楽』『甲州子守歌』なども生まれた。
〈不在〉中、七郎は武田泰淳の小説「にせ札つかいの手記」(昭三八・六)に「丸木バレンチノ」として登場した。七郎はこれが気に入り、隠れ家の表札にしたりもした。
流浪中の三十七年十月、正宗白鳥がこの世を去る。『白鳥の死』『正宗白鳥と私』『正宗白鳥的感傷』(いずれも昭三七・一)など、七郎は多くの回想を書いた
。最晩年の白鳥がキリスト教信仰に回心したか否かという観念的な議論の多い中、七郎の文章はシニカルだが、どれも白鳥への敬愛の念に彩られていた。
流浪の間に、七郎は以後生活を共にする青年と知り合う。ミスター・ヒグマこと森兼宏で、口の重い、もとボクサーという巨漢。常に七郎の身辺をガードしていた。
現在、長野の上田で新聞販売店を営む森は(注−執筆当時)、いくら考えても、どんなきっかけで七郎と行を共にすることになったのか、いまだにわからない。第一印象は変な面白いオッサン、だった。『楢山』を二ぺ−ジも読むとグウグウ寝てしまう森を七郎は気に入った。「先生の『楢山節考』には感動しました」などと言いたがる「世の中で使いもんにならん」人種に、七郎は飽き飽きしていた。
昭和四十年十一月、深沢七郎は流浪の生活を切り上げる。埼壬県南埼玉郡菖蒲町。とりとめもない関東平野のどまんなか、七郎の「終のすみか」である。三千五百平方メートル(三反半)のラブミー農場。「ここでは風が風であり、雨が雨のようである」と言ったのは開高健である。
引っ越しを手伝った、石和の旧友大田孝の息子克哉によれば、普請が終わらないうちに転居してしまった。二、三週間は電気も水道も敷かれていなかった。
明くる年の川久保正郎あての年賀状。
百姓になりたくて表記に来ていますが、なにしろ冬なので百姓仕事もありません。春−六月頃になればこちらはいちごが出ます。
共に暮らすのは、ミスター・ヒグマ(森兼宏)と帝国ホテルでコック修行をやったミス夕−・ヤギ(深谷満男)、それにボクサー犬ニ匹。
七郎は「晴耕雨音」の生活に入る。百姓と「体操」と称するギターざんまい。あいまには耳をつんざくような大音量でかけるプレスリーのロカビリー。
「農場」とはいささかおおげさで、広めの家庭菜園といった趣である。自給自足を旨として作付けも多彩である。大根、つけ菜、コカブ、ニンニク、ラッキョウ、ニンジン、インゲン、エンドウ、イチゴ、ネギ、キャベツ、里芋、キュウリ、カボチャ、ナス、トマト、枝豆、落花生、梅、桃、柿、梨、リンゴ、ザクロ、グミ
「仙人」暮らしと書いたマスコミもあった。宮沢賢治よろしく七郎がベジタリアンか粗食に甘んじていたように見える。が、ミスター・ヒグマによれば、七郎はかなりうまいもの好きで大喰いだった。大きなステーキやら山盛りのオオトロをペロリと食べる。腹いっばいにならないと食べた気がしない。うまいものがないとご飯ばかりもりもり食う。
七郎亡き後農場を訪ねた私達の前に、ミスター・ヤギはむっつりてんこ盛りの刺し身を置いた。七郎のいる生活は生きていたとみえる。
玄関の張り紙に日く、
・突然来た人はここから帰れ 前に訪問を諒解した人だけ声をかけること
・写真は15分以内のこと「ポーズを作れ」は厳禁
・用件をそこへ書いておくこと返事はあとで出します
・原稿は原稿料をはっきりと 出版は印税パーセントをまずはじめに知らせること
・随筆、対談お断り
小説の執筆お断りとはない。「生理作用」でいつ書きたくなるかわからないから。現にここで後半の代表作の数々『無妙記』(昭五○)『みちのくの人形たち』(昭五四)『極楽まくらおとし図』(昭五九)などが生まれている。
ジャーナリズムや編集者、自称ファンの人々、学園争議に心疲れた学生……次から次へとやって来る。人来たり人去る。しまいには窓ごとにシャッターをつけて自衛しなければならなかった。師の正宗白鳥にわをかけた人間嫌いとなり、週刊誌などでは「人聞滅亡教教祖」と呼ばれるようになったのもこのころからである。
麦わら帽子にちゃんちゃんこ、ポロシャツにサンダル、それにギター。ラブミー農場での深沢七郎のファッションである。いや、どこへ行くのでも、さほど変わりはなかった。あるテレビ局ではゲストに頼んでおいたのに守衛が追い返し、スタッフと重役があわてて謝りに行った。出演料は固持し、しまいには怒り出した。「出てもいないもんを受け取るなんてことはできん」と。
農場では衣類がごちやごちやになるのでカラーを決めた。七郎が赤、ヒグマ(森)は青、ヤギ(深谷)は黄。軒先の干し物は、さながら運動会の万国旗のようだった。
農地委員会からは農業を職として認定され、隣組の付き合いにも顔を出すようになった。
〈土俗〉の作家などと常に言われていたものの、七郎には農業の経験がない。甲州街道は石和の町っ子である。がんと問う母親と暮らした日々、せいぜい庭先で野菜を作っていたくらいなものである。
あこがれて始めた「百姓」の目から見ると、周囲の農家の現状は不思議なことばかりだった。耕運機がくわの代わりだし、化学肥料に消毒薬、キャベツならキャベツの単一栽培。農家の主婦がスーパーに米や野菜を買いに行くのである。自家製のみそなんてとんでもない。
『盆栽老人とその周辺』(昭四八・五)は、七郎の現代の農村、農民への違和感が表れた作品だった。
「深沢七郎選集」三巻が刊行された昭和四十三年、七郎は米、みそをつくり始めた。大豆からつくり、コウジを買い、本式だった。ついに「昔味噌」と銘うって注文があれば配達した。大きな樹脂製バケツが三十も四十も並んだ。製造から配達まで三人でやった。実際は屈強なヒグマとヤギが主戦力で、七郎は口やかましい絶対君主のようなものだった。
朝五時のステレオの大音響で目覚め、畑仕事。「一のこやしはあるじの足あと」と心得ていた。八時には薪とへっついで炊いた飯に、自家製のみそ潰け、奈良潰け、みそ汁、庭で拾ったタマゴ、つくだ煮で、三人がもりもり食べる。「農閑期」にはギター・リサイタルや執筆。
とはいえ、四十三年は「話の特集」で野坂昭如、竹中労、永六輔らと対談したほか、小説らしい小説はほとんど作っていない。
選集の発刊を記念して、甲府の県民会館でリサイタルが開かれた。川久保正郎の司会、芥川賞作家小尾十三の講演、独奏、ヤギとの二重奏、一瀬純一一門の賛助出演。一瀬は石和時代の七郎の弟子である。七郎のクラシックギターからスタートし、モダンギターに新天地を求め、県下に門弟三千人といわれていた。
七郎の選曲は戦争に夭折した小栗孝之の作品がほとんどだった。七郎は追慕の思いをタキシードの正装に託してギターを弾いた。土くれに太くなった指を気にしながら。しかし、七郎の演奏には、名ギタリストでもあった小栗が乗り移ったかのような響きがあった。
忘れたことはなかったが、それは突然深沢七郎にふりかかってきた。以下は『死にそこなったの記』(昭四四・三)による。
そのとき、私は手と足が小さくふるえているのを知った…胸が吐き気のような苦しいような気持ち…たった20秒か、30秒で、それから私は胸が苦しくなったのだった……−コレワ心臓ノ病気ダ−と知った…すぐ死ぬのだろうときめた。
四十三年十月三十一日、狭心症の発作である。突然口を大きくあけ、身もだえしている七郎に、ヤギ(深谷)とヒグマ(森)、たまたまいた隣家の新井幸作の三人は、何が何だかわからない。胸や足、肩をさすったり、もんだりしてくれる。苦しいのでその手をふり払い、もっと苦しいので手をつかむ。新井が「医者を!」と言うのを「ダメダメ、医者でもダメ」とうめく。体中から油のような汗が噴き出る。二、三分ごとに下着をかえる。だれも「これは、ダメだ、死ぬな」と思った。
午後の3時ごろから、7時ごろまで、いま−いま死ぬぞ、さあ死ぬぞ−と苦痛をこらえていた時間の長かったこと…それでも、−もう死ぬのだ−という気持ちがあったので、その苦痛にたえられたのだと思う。死ぬということは、そんなにもつえのように頼みになる言薬や事柄なのである。
ヒグマが千葉の作家で医師の宗谷真爾に電話をかけに行く。平生「おれは病気になっても医者には診てもらわない。死んだら宗谷真爾さんに知らせて、死亡診断書を書いてもらうのだ」と言い聞かせてあったからだ。
七郎が眠り込む。朝になるまでふたりのミス夕−は寝ずの番をする。発作は一応収まった。
以後、毎夜体が浮き上がるような悪寒と苦しさに襲われた。
二回目は十日後。発作はさらに苦しく、手のひらや目、ロのまわりはナスのように変色してしまった。隣の新井さん夫婦、ふたりのミス夕−が冷えていく七郎を、抱いたり包んだり、体で温める。東京から駆けつけた弟の貞造が「こんなところで、さすってばかりいては死んでしまう」と言うのが聞こえる。「アレッ……死なないと思っているのだろうか?」と七郎は驚く。隣家の夫婦、弟夫婦、めい夫婦、山梨のおい、それにヤギとヒグマ……周りの者が気の毒で、七郎は大宮の日赤病院に入ることにする。
二十日ほどの入院。退院直前、可愛がっていたボクサー犬のクレイが死んだ。「おれが死んだら、おまンは困るなァ」と話しかけていた犬である。
クレイは死んだ。が、私は死にぞこなってしまった。死ぬリハーサルを二回もやって、こんどは本番をしなければならないのである…ガッカリである。
どこでも吸えるよう、家の中のいたるところに置いてあったたばこと灰皿はしまい込まれた。
四十五年、七郎は秩父の聖地公園に墓地を買い、お披露目の記念品を隣組に配る。七郎だから七号を選んだ。
思いたって仏壇を買うと言い出す。ポケットにお札の束をつっこみ、「本場」だと七郎が思い込んでいる京都まで、ヒグマの運転でおもむいた。配達するというのを、持って帰ると言いはって、車の屋根に大きな仏壇をくくりつけて戻って来た。
深沢七郎にとって「百姓」になりたいという気持ちにいつわりはなかった。人間を避けようとしていたのも事実だ。そこには、もうだれにも迷惑をかけたくないという思いもあった。
食べるものは自分で作りたい。心臓の発作を繰り返す自分のために、墓地や仏壇を用意し、葬式用の読経テープまでこしらえる。ミスター・ヤギ(深谷満男)を養子にして、「深沢」を継がせる。人にすすめられれば病院にも入る。すベては七郎の気配りだった。
世間から離れて暮らすのも、自分を守るためではなかった。『風流夢譚』で他人を巻き添えにしてしまった自分を、自分から流刑にする気持ちからだった。
人が人を不幸にする。人が平和をこわす。人なんてウジ虫にも劣るのじやないか。愛すべき、呪うべき人間。自らを省みて七郎がたどりついた思いだった。
『風流夢譚』の作者が、望んで流謫(るたく)の地にいる間に、文壇も移り変わった。彼を新人賞に選んだひとり三島由紀夫は、『英霊の声』(昭四一)や『豊穣の海』(同四一)の作者となっていた。やがて、「などてすめろぎは人間となりたまひし」と嘆きつつ、割腹自殺をして果てた。
もう一人の選者武田泰淳は「動物たちにとってもっとも理解しがたい異常なるものは、ニンゲンなのだ」と言いつつ、『富士』(昭四六)を書いて、世を去っていた。
『風流夢譚』から十年後、ベトナム戦争の泥沼のなかで日米安全保障条約が延長されようとしていた。全国の大学、高校は反戦平和、民主化の大波にのみ込まれていた。自然発生した全共闘は、権力構造ではなかったから、かえって体制を脅かす根源的なパワーを秘めていた。けれども、それが組織となり自衛しようとした時、粛清、連続リンチ殺人で自滅していった。
人知れぬニヒリズムとは裏腹に、相変わらず七郎の言動は、面白半分の話の種となった。曳船駅近くに開いた今川焼き屋「夢屋」の包み紙は横尾忠則が「サイケ」調に仕上げた。ヤング週刊誌の人生相談。唐十郎、白石かずこ、寺山修司ら話題の人たちとの対談。英仏独伊語への翻訳。国内以上に外国での素直な深沢文学理解。ハンガリー移住計画。今村昌平による映画『楢山節考』のリメイク……。カンヌ映画祭でグランプリをとったものの、『東北の神武たち』を接ぎ木して、生死よりも性描写に話題の集まった映画だった。
親しい何人かには、七郎はとことん甘えている。郷里石和の親友太田孝の未亡人には、浴衣を無心する。同級生曽根崎保太郎には生葡萄酒をねだる。ミスターたちにはわがままを言い通す。シチロウさんあるいはオッチャンのわがままは、ここでは容認されていた。
昭和四十八年、三日おきの心臓発作が七郎を襲い、九月以降は入退院の繰り返しだった。生きているうちに書きたいものがあるという思いが、これまでになく七郎にわいてきた。若い立松和平とテーブルを挟み、小説合宿をしたのもこのころだった。血が通っていないかのように冷えきった足を、ミスター・ヤギにもんでもらいながらの執筆だった。
還暦のころから深沢七郎はふたたび小説を発表し始めた。『妖木犬山椒』『村正の兄弟』(昭五○)『アラビア狂想曲』『をんな曼蛇羅』(同五四)…。
昭和五十四年六月、後期の代表作『みちのくの人形たち』を発表。かつて『風流夢譚』を載せた「中央公論」だった。東北の貧しい農村を舞台に、間引きの風習をさらりと描いた佳作だった。露悪的でイロニカルなまなざしは消え、共感や温かみさえ漂わせていた。
七郎は『みちのく』を石和の実家に持ち込み印刷する。封筒の紙のような粗末な紙、しかも活字の号数の違うページがあった。七郎は一冊一冊お経本のように折り、糊づけして仕立て、自分の手で売る。この「出版」に勢いづいて、十月には、やはり私家版『秘戯』を刊行した。
五十五年、『みちのく』は川端康成賞に選ばれる。が、受賞を辞退。この年、「『破れ草紙』に拠るレポート」『闇に咲く美青年』『いろひめの水』『和人のユーカラ』……創作は旺盛だった
十二月、中央公論社から『みちのく』を刊行。翌年、同社主催の谷崎潤一郎賞に選ばれる。今度はもらった。祝資会の席上、七郎は「縁は異なもの、味なもの…」とスピーチし、お礼に〈ヤクザ踊り〉を踊ってみせた。さっと片肌脱ぐと唐獅子牡丹。バックには自作の『七郎牡丹』の唄。
義理と人情を枠にかけりゃ
義理も重たい人情もつらい
勝手気ままな数々を
なんと詫びようか皆様方に
背中でないてる七郎牡丹
二十年間の一部始終を見てきた唐獅子だった。五十九年、『極楽まくらおとし図』、六十年『刺青菩薩』。
六十二年六月、七郎は母家に張り出した温室で、中央公論社のインタビューを受ける。山梨のブドウの樹が枝を広げていた。マスカット、ピオーネ、オリンピア、キャンベル。
わたしの家はホラ、山梨で、家は印刷屋だけど裏に葡萄畑があってね、葡萄なんてゼニ出して食うものとは思ってなかった。
対談の末尾。
− 秋になったら葡萄パーティーをやりましょうよ。
深沢 やろうやろう。オレが生きてたらね。
これは実現しなかった。ニか月後の八月十八日、ヤギが気づいたら、ブドウ棚の下、床屋のいすの上で七郎は眠るように死んでいた。「本番」は友人が羨むほどうまくいったのである。
三周忌のころ、石和の友人太田孝の子克哉と、ラブミー農場を一人で守るヤギさんを訪ねた。
「作品を読みたい人は多いと思いますが」というこちらの言葉をさえぎって「再刊を認めているのは『楢山』だけです。いまのところ」とヤギさんは言い放った。
七郎の墓地は長瀞の川を見下ろす、やたら明るい公園墓地の一角だった。何の変哲もない墓石。
帰途、何を思ったのか、ヤギさんは近くの吉見百穴へ案内してくれた。迷路のような二百あまりの横穴は、七世紀の古墳の跡だという。
無口なヤギさんが、おしつけるように持たせてくれたのは、七郎手製の『みちのくの人形たち』と『秘戯』。裏表紙を開くと
この一篇を我が心の友のかたがたに捧ぐ 深沢七郎
『楢山節考』−聖地公園−吉見百穴−『みちのくの人形たち』。ヤギさんを通して、深沢七郎の思いが伝わってくるようだった。