深沢七郎−文学&ミュージック

深沢七郎の修行時代
『楢山節考』で文壇デビュー
深沢七郎と音楽
誤解された『風流夢譚(ゆめものがたり)』
深沢七郎と飯田蛇笏
深沢七郎−生と死
小説と音楽
七郎作品の題名から

深沢七郎の修行時代

物を書くことはギターを弾くことと同じく〈中毒〉のようなもの、と言っていた七郎にも、作家修行の時期があった。
母さとじと(昭和12年)
昭和21年、32歳の七郎は「文藝春秋」の広告で、鎌倉在住の新藤兼人・船山馨・丸尾長顕らの指導する「新人作家集団」を知る。
以後、丸尾によれば「ユニークなセンス」と「キザっぽい文章」の短編を投じるようになる。

旅回りのバンドのギタリストだった七郎に、丸尾はしきりに作家となることを薦める。
母親さとじは「ひどいことを勧める先生だ」と憤慨した。

昭和24年、母親が肺臓ガンで死去。

『楢山節考』のモチーフは、この時から七郎の胸中にあった、という。

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『楢山節考』で文壇デビュー

丸尾長顕の新潮文庫版『楢山節考』(昭和39年7月)世話で日劇ミュージックホールのギタリストをしていた七郎は、昭和30年、

豪華けんらんの楽屋から急に山の中へハイキングしてみたい気持にかられ

『楢山節考』を書き始める。『楢山節考』出版祝賀会(昭和32年2月6日・日劇ミュージックホールで)

翌年2月、第1稿完成。丸尾のアドバイスでさらに2度書き直し、勧められるままに「中央公論」第一回新人賞に応募する。

七郎はこんな作品が固い雑誌で選ばれるわけはないと思っていたが、伊藤整・武田泰淳・三鳥由紀夫ら審査委員全員一致で授賞が決まる。

素材の特異さ、登場の仕方の突然さもあいまって『楢山節考』を〈残酷な棄老伝説〉だとする捉え方もあった。
七郎、42歳のことだった。

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深沢七郎と音楽

深沢七郎は13,4歳でギターを始めた。愛用のギター「瑞雲」と。(昭和19年8月・30歳)
彼が日本で初めてナイロン弦を使ったクラシックギター奏者であることは、あまり知られていない。

リサイタルは第1回の昭和14年以来、昭和27年まで18回も続き、山梨でも開催された。

バンドや日劇での芸名は、ジミー川上あるいは桃原青二だった。これは放浪中の変名でもあった。

下町の非行少年たちを描いた『東京のプリンスたち』(昭34)は、全編で30曲余のプレスリーの曲が挿入されている。

ビートルズなどリズムの明確な曲を大音量で聴きながらの執筆を好み、フーガやポルカのようなスタイルの小説を思い描いた。

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誤解された『風流夢譚(ものがたり)』

日本中が安保闘争に沸き上がった昭和35年12月、七郎は『風流夢譚』を「中央公論」に発表、皇室を侮辱するものだとして右翼の反発をかった。『東京のプリンスたち』(中央公論社・昭和34年11月)

翌年、2月1日夜、中央公論社社長嶋中鵬二宅は小森孝二に襲われ、お手伝いの丸山カネが殺害された。
七郎のもとにも脅迫状が相次ぎ、いたたまれず京都・大阪・尾道・広島・東北・北海道と放浪の旅に出る。

七郎によれば

誤解される要素もあったのかも知れないけど、妖しくて滑稽で残酷さも金属的な残酷さを扱ったもの、そんなものが書きたかった

という。

以後、再刊の話にも、彼は「人が殺されているからねェ」と耳を貸さなかった。

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深沢七郎と飯田蛇笏

昭和33年5月、『笛吹川』を中央公論社から刊行したばかりの深沢七郎は、境川の山廬に飯田蛇笏を訪ねる。
彼はこの訪問を郷里の友人に葉書で予告し、同行を求めている。

一方、蛇笏は没後刊行された最後の句集『椿花集』(昭和41年5月角川書店)に、次の一句を残す。

     「楢山節考」の著者深沢七郎氏来訪左深沢七郎、右俳人・飯田蛇笏(昭和33年5月8日・山廬にて)
炉語りや五月八日の夜の情

同じ笛吹川の近くで生まれ、蛇笏は山廬に生涯起居し、七郎は生涯遍歴した。
『笛吹川』(中央公論社・昭和33年4月)
『楢山節考』は境川の春日山がイメージされているという。

30ほども年の違う二人の間に、どんな炉語りが交わされたのか興味深い。

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深沢七郎−生と死

私は何もかも、ひとりで考え、私だけの道で、好きなことをしていれば楽しいのである。私は生まれたということを屁と同じ作用だときめたが、本当はもっとオカシイことだと思う。そのことを言えば笑ったり、悪いことを言ったように思われたり、そのことを書けば犯罪になることなどもあるのである。そんな変な作用で私たちは生まれたのだから、生まれたことなどタイしたことではないと思うのである。だから、死んでゆくこともタイしたことではないと思う。生まれて、死んで、その間をすごすことも私はタイしたことではなかったのである。
(『自伝ところどころ』昭和43年9月「週刊文春」)

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小説と音楽

音楽の『ロンド』とか『フ‐ガ』とか『変奏曲』のような型を小説の構成に使いたいのが小説を書きたい一番の魅力だが、どれもうまく出来上がらなかった。ロカビリーが流行するようになってぴっくりした。マンポ、ウエスタンも同じで、彼らの瞬間的な、強烈な、二分間か三分間だけの小品物が自分だけの勝手な、ゴキゲンになりさえすればいい方法、つまり、勝手に、好きな部分だけしかないミュージックにぴっくりしたのだった。耳で聞いて頭で考えるという音楽ではなく、身体で受ける演奏方法にも驚いた。
(『自伝ところどころ』昭和43年9月「週刊文春」)

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七郎作品の題名からラブミー農場で

「ポルカ連作」
「甲州子守唄」
「かげろう囃子」
「朝鮮風小夜曲」
「木曽節お六」
「日本風ポルカ」
「支那風ポルカ」
「江戸風ポルカ」
「落語風ポルカ」
「ポルカ・アカデミア」
「歌舞伎風ポルカ」
「編曲風ポルカ」
「浪曲風ポルカ」
「ポルカ・パントマイム」
「ポルカ・クラシカ」
「自叙風ポルカ」
「三つのエチュード」
「おくま嘘歌」
「安芸のやぐも唄」
「ペえべえぶし」

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