星のラブレター

福岡哲司

 出来れば毎日本屋と喫茶店には行きたいのである。昔、父が町外れに転居しようと提案した時、私は地盤や水を理由に反対したが、本当のところは、そこには自転車で行ける範囲に本屋も喫茶店もなかったからである。

 THE BOOMの宮沢和史さんが「星のラブレター」で、

  朝日通りは 夕飯時 いつもの野良犬たちが
  僕の知らない 君の話 時々聞かせてくれた

と歌った甲府の朝日通りに第一書房があって、ここが一番行きやすかった。古ぼけたというほどでもなかったが何か薄暗かった。これという得意分野もない雑多な品ぞろえで、上中下の下巻しかなかったり、というおおらかな経営だったが、毎日本の顔を眺めるにはこれでも十分だった。古い郷土出版の本で「第一書房刊」というのがあるが、昔は出版も手がけたことがあるのだろうか。奥の方に度の強い眼鏡を掛けたおばあさんが座って店の中を睥睨していた。使用人にも厳しいように見えた。ここで少年雑誌の付録を取り替えて買うという悪さをした友人もいたが、当時は賑わった商店街だったから、万引なんかも少なくなかったかも知れない。

 品揃えもますますあてにならなくなってほとんど行かなくなってしばらくして、第一書房は店を閉めた。朝日通りもかつての賑わいが失せ始めていた。

 朝日通りにはもう一軒太洋堂があった。ちゃんとした本屋でというのも曖昧だが、ある頃から本はここでほとんど買うようになった。最初は古書が多かったが、途中からそっちは兄の城北書房に任せて新刊書中心になった。しばらくして店は、角を曲がった山の手通り(湯村通り)に移った。整理されていて明るく利用しやすい店内だった。おじさんは古書店をやっていたくらいだから本のことをよく知っていたし、おばさんは優しい声音だが凛としたところもあって店に入る時、私は多少緊張した。下手な本は買えないぞという感じだった。

 私が小学生の頃からだろう、全集ブームが始まって、「少年少女」と冠したものから、少し長じて「世界」とか「日本」とかつくようになっても、毎月ここから配達してもらった。おじさんが担当で、自転車の後ろに洗濯屋のような大きな箱を付けていた。来れば一日か二日で読んでしまって、翌月の配刊が実に待ち遠しかった。取り寄せなども、その頃は時間はかかったが、ここでした。

 ある時、母親が店に行って「息子の本や学費や書籍代にお金がかかるから、私の雑誌は止めます」と言ったのを、おばさんだったか、さも美談のように話すので、私は閉口した。母親の定期購読していたのなど、「主婦の友」とか「暮らしの手帖」くらいだったからである。

 高校生や大学生、一般の人まで含めてかなり盛っていたと思うのだが、ある時を境にぴったり店を閉じてしまった。娘さんがみんな優秀で、その一人が大学で知り合った政治家の息子と結婚するに当たってそっちの地元へ一家で移ったのだと聞いた。店の家賃も馬鹿にならなかったのだろうと思う。

 亡くなった城北書房の長谷部さんと「太洋堂がなくなって残念だ」という話をしていたら、長谷部さんが「気候もいい、食べ物もおいしい土地へ、弟は行ったのだというのが唯一の救いです」というようなことを言われた。今や姪っ子のご主人が二世議員の政治家になっていた。

 朝日通りを下って甲府駅に至る水門町に天下堂があった。朝日通りのガードから駅頭にかけて、まだきれいな石畳のあったころだ。

 天下堂は最初、親や祖父に連れられて「シタマチ」に行く「ハレ」の日に立ち寄る店だった。仲見世で何か買ってもらって、キリン館のハヤシライスかチキンライスを食べさせてもらって、帰りがけに寄るのだ。年に何回もない。寄らなければ寄らないで、私は歩道に大の字になってストライキをやったように思う。けれども、たいていの場合、両腕でつり上げられて朝日通りをぶらさげられて帰ったのだ。

 番台のようなところにはっきりした顔立ちのおばさんが座っていて、その両側がガラス戸の入り口になっていた。通りに面したおばさんの背後のガラスケースには、高価な本や資料的な書物が飾られていた。今にして思うと古書店っぽい店構えだった。そのせいではないだろうが、人文関係を中心に専門書が多かった。二階もあってこちらは理数系の本や学参だったように思うがはっきり覚えていない。全体として常備してある冊数も多かった。

 天下堂は中学、高校、大学となれば、もっと利用価値のあった店のはずだが、遠い、高い、入りづらいしで、たまにしか行かなかった。やがて二階が閉鎖され、品揃えも貧弱になって新刊が入らなくなった。

 やがて、天下堂も閉店してしまった。閉店すればしたで、とても残念に思ったことを覚えている。人知れず責任も感じた。

 大学近くの武田通りに星野書店があった。けれども、申し訳ないことに、あんまり本を買った覚えがない。それよりも二階の喫茶室に粘って、時にはゼミの続きの議論をコーヒー一杯で二時間も三時間もやっていたことの方が印象が強い。登校のついでにまずは星野二階に寄る。なけなしの小遣いでコーヒーを飲んでいると友人が階段を上がってくる。しばらく話をして、一緒にさぼろうということになる。これまたなけなし小遣いで、昼間から酒を飲みに行ってしまったこともあるように思う。

 星野書店は今や娘さん夫婦の代になって、新書や文庫の品揃えのマニアックな趣味が私の趣向と一致して、たまには武田通りを上っていく。

 甲府市内の中心部には、柳生堂、徴古堂、甲府書房といった本屋もあって、特に前の二軒は江戸時代からの老舗だった。

 なにしろ「シタマチ」であり、特別な日にしか行かないところだったが、高校生になると年中行事で、年度初めには教科書をそろえに各店を回ることになっていた。ついでに張り切って参考書のたぐいを買い込むのもこういった本屋だった。

 教科書も学参もいらなくなった頃から、こういう店にも足が遠のいた。これらの店が次第にどこにでもある本屋になっていき、常備してある本も少なくなっていったからだ。とはいえ、これらの店は自分には特別な、なにか権威のある店の印象があって不便なのをいとわずたまに寄ってみて、失望して帰ることになるのが常だった。柳生堂は繁華街や郊外に支店を出し、本拠がこちらに移った感じで一時は行きやすかったのだが、持ちこたえられなかった。ほどなくもとの柳町の本店だけが残り、行くたびに小さくなっていった。もはや探すほどの本もなかった。店を覗くこと自体切なくなる事態だった。これは、尊敬する先生がすっかり惚けてしまったように悲しいことだった。

 これらの衰退と反比例して、岡島デパート近くにあった朗月堂が一番本を買いやすくなった。車に乗るようになると駐車場に困ったが、無理をしても行く価値はあった。叢書や専門書も買うことができた。ここが店を閉じるという噂に、「お前もか」という思いがしたが、郊外に広い駐車場のある大きな書店として充実した。コミック、パソコン、雑誌、一般書……役割分担した棟が自然増殖してから、ますます行きやすくなった。在庫調べの端末を店に置いたのも甲府ではここが一番早かった。

 JR甲府駅近くの西武デパートにリブロがあって、ここも充実していた。アート関係などは特によかった。けれども、デパート自体がなくなってしまえばどうしようもなかった。駅ビルに改造社も入ったが、読み物を買うことは出来ても、欲しい本が買えるとはとうてい思えなかった。岡島デパートに紀伊国屋が入ってすぐ、関心のある棚を見て回って随分頼もしく思った。入門的な本からある程度の専門書までちゃんとあるのだ。さすが紀伊国屋、ここがこれから自分の本探しの玄関になるかもしれないと思うとうれしかったのだ。こういう店はつぶしたくないと思った。けれども、たまに立ち寄る度に、みるみる特色が失せていった。専門書は減る一方で増えることはない。各ジャンルとも新刊追加の速度は落ちていく。どこの本屋とも変わらなくなっていったのだ。

 知らぬ間に駅前通りや西銀座の路地の本屋−甲府書房などがなくなって、寿司屋で「本屋もなきゃ困るよ」とぼやいた途端、カウンターの向こうで鮨を握る職人が「本屋もなきゃ困るんだよ」とオウム返しに繰り返した。

 本屋がなくなる、小さくなる、変わりばえしなくなる、これは市場のせい、わかりやすく言えば客のせいなのかもしれない。本を買わない、買う本のジャンルは少ない、コンビニでも十分……という。

 とは言え、これは悪循環なのではないかと思う。維持費と釣り合うかどうかは分からないが、本の多い、規模の大きい本屋には客が入る。多少の距離はあっても客は行くのだ。持ちこたえて欲しいものだと思う。

 出来れば毎日本屋と喫茶店には行きたいのである。町内に本屋はなくなってしまった。喫茶店は、減りはしたものの、まだ、ある。半分コミックと雑誌でもいい、半分は新書・叢書・文庫でいい、昔のように、下駄履きで行ける本屋が町内に一軒はあってほしい。これは少数のわがままな客だけの言い草なのだろうか。

  年をとって生命がつきて 星のかけらになっても
  昨日聞かせた僕の歌 町中に流れてる(宮沢和史「星のラブレター」)

(二〇〇五・四・二九)


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