文学館ではじめて個人作家の文学展をするには樋口一葉をおいてほかにはないと、私は前々から考えていた。
近代文学の草創期の、しかも、この国ではじめての女性の職業作家で、死んだ時がわずかに24歳。日本中でもたれているいわゆる読書会で、もっとも多いテーマは、おそらく「一葉文学」あるいは「一葉の日記を読む」だろう。両親は山梨の塩山の農家の生まれ。言ってみれば、一葉には山梨の農民の血が流れている。一葉展はどこからも賛同を得られるだろう、必ず実現しようと、私は心ひそかに決心した。
しかし、問題はあった。肝心の展示資料で館蔵のものは多くない。馬場孤蝶あての手紙−これは晩年の心境のわかる一葉の3つの代表的書簡のなかに入る−が2通。あとは『にごりえ』ほかの草稿、草稿の断片、色紙、塩山の田中きくさんから寄託された葉書2通、父則義関係資料……そんなところだった。
収集をさぼっていたわけではなかった。神田古本街の市場に一葉資料は年に数点しか登場しない。しかもバブル景気の残光のころで、いつでもべらぼうな価格がつけられていた。たとえば、てのひらに乗るほどの小さな色紙が数100万円とか……とても限られた予算で片っ端から購入するわけにはいかなかった。カタログを見ながら、資料「市」のケースの中を見ながら、歯噛みしたことも一度や二度ではなかった。
文学館の開館の際、来賓として訪れた日本近代文学館の理事長の小田切進さんは、祝辞のなかで、
「山梨の文学館は一葉資料の収集を課題とすべきだ」
と檄(げき)を飛ばされた。私たちはそれをもっともだと聞きながらも、少ない一葉資料の奪い合いになっている状況を御存知のくせにと、山梨に縁のないことはない小田切さんが意地悪くも思えた。
乱暴な企画のように言う人もあったし、現実的に考えると自分でも幾晩も眠れないほど不安だった。けれども、私は樋口一葉展をあきらめることはできなかった。開催ができるかどうかは各地に散在する一葉資料が借り受けられるかどうかにかかっていた。
東京の台東区には一葉記念館がある。小さいながらもまとまった展示が一葉をしのぶ人々に受け入れられている。訪れて資料出品の依頼を行ったがものの見事に断られた。それもそのはずで、記念館が所蔵している一葉資料は展示ケースに出ているもので全てなのだった。記念館に休業してもらって一葉に「出張」してもらうわけにはいかない。さきざきのことも考えて、多額の費用をかけて代表的な資料の実物複製をさせていただく許可を得た。一葉展を開催する時、記念館の資料は複製で行うことにした。
記念館は台東区龍泉という『たけくらべ』の舞台にあって、近くには一葉を愛する人々も多い。個人で資料を集めている荒木慶胤さんのような人もいた。荒木さんは快く、しかし、厳に慎重な取り扱いをする条件で、一葉晩年の資料を借りることができた。小林清親の『浅草田圃太郎稲荷』の版画、周延・国利の新吉原の錦絵の出品も承諾してくれた。
蒲郡のKさんには『たけくらべ』の原稿の一部を、神田神保町の八木書店の八木荘一郎さんには鏑木清方描くヒロイン美登利像のほか、一葉のために小説の師半井桃水が発刊した貴重な文芸誌「武蔵野」などを借りる見込みがついた。山梨の親類縁者からは一葉の手紙、親族の資料、2冊本の全集、母親多喜の写真などを出品してもらうことにした。駒場の日本近代文学館では……。1点ずつお願いして行ったのだが、それでも次第に展示資料のリストも増えていった。
しかし、まだまた私には心にかかっている課題があった。それは一葉直系の子孫樋口陽さんのお宅である。樋口さんは一葉の跡に家を継いだ邦子の孫にあたる。色々なところで聞いたのは、樋口さんは非常にきちんとした方で、今までずさんなデパート展や無知で不作法なテレビなどの取材、研究者のわがままに蹂躪されて以来、一切の公開を許さないとのことだった。もう樋口家には一葉資料はほとんどないだろうと言う人もいた。ほとんど望みのない感じだった。
一葉展を計画しているのに、直系の子孫に挨拶もしないというわけにはいかない。私は意を決して学芸課長だった清水琢道さんを通じて樋口さんに連絡をとってもらった。突然の電話でもあり、「山梨県立文学館」という大変なところからの連絡でもある。樋口さんは用件の内容をいぶかしがった。無理にお願いして阿佐ヶ谷のお宅に押しかけることにした。
私は多分かちかちになって、けれども、一葉を初めての個人展としてどうしてもやりたいこと、資料集めの苦心、現状を樋口さんに懸命にお話しした。黙って話を聞いていた樋口さんが
「どんなものが必要なんですか?」
と尋ねた。ぼくは、たとえばこんなもの……と話し始めた。すると樋口さんは
「あ、それならありますよ」
と座を立つ。戻られると手にはまぎれもない一葉の手。びっくりして、
「ほかには?」
と促されるまま、こんなもの……と話すと
「あ、それもありますよ」
と座敷を出て行かれる。これが幾度繰り返されたことだろう。
気がついたら目の前の8畳ほどの畳の上には、一葉の草稿から色紙、短冊、屏風、落書き、肖像、髪の手入れの道具、一葉の学校関係の資料、兄の虎之助の薩摩焼の作陶、鏑木清方の名作『たけくらべのみどり』の幅などがずらりと並んでいた。
「一葉と同時代の文人たちの資料などは?」
と聞けば、たちどころに幸田露伴、馬場孤蝶、斉藤緑雨の資料が出る。特にびっくりしたのは露伴の原稿で、その1つは山梨の塩山の慈雲寺に立つ一葉碑の草稿だったのである。
「こういうものもあるんですか」
とぼくは唸ってしまった。清水課長もうーんと唸(うな)ったきりだった。
「今までこういうものをと言われたことがなかったので、出さなかったのです」
と樋口さん。
「この屏風を見てください。デパートの展示で傷だらけになってしまいました」。
そして、
「こういうもので役立つなら、どうぞ」
とあっさり言われた時は、ぼくは身体中の力が抜けた気がした。これで一葉展は成就したと思った。それも思いがけないほど充実して。
樋口さんが言われた。
「考えてみたのですが、父が前に山梨にお貸しして皆さんにお目にかけたことがあります。うちでお貸しするのはそれ以来はじめてです。父がお貸しした内容に今回のが劣ってしまったのでは、私としては困るのです。」
昭和●●年、県立図書館で開かれた樋口一葉資料展のことである。ぼくは興奮でぼーっとしていた。
初めての個人展として樋口一葉展を開催することができた。大変な好評だった。展示を見たひとびとには十分な満足感があったようだ。一葉を専門とする研究者にも、現在、考えられる最高の内容だと折り紙をつけてもらった。会期中、会場になにか熱気のようなものを、ぼくは感じた。この機に発刊した図録『樋口一葉の世界』も、樋口さんをはじめとする協力のおかげで、現在のところベストに近い『一葉文学アルバム』になった。講座にみえた竹西寛子さんからも、よく出来た図録だと太鼓判をおしていただき、随分たくさんの方が購入していかれた。
その折の資料のほとんどは、現在、山梨の文学館に譲られている。他からの資料ともあいまって一葉とその周辺の資料コレクションでは、山梨の文学館は日本でも有数のものとなった。
樋口陽さんの夫人は一葉研究の権威、故塩田良平博士の令嬢である。母上はかつて県立図書館に資料を出品された故樋口悦さんの夫人でもある。
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