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我が恋は
行雲の
うはの空に消ゆべし

INDEX

樋口一葉は甲州の女?
父・大吉の夢
戸主・夏(一葉)
「学校は止になりけり」
萩の舎に学ぶ
半井桃水の教えた小説
初期作品と男友達
「歌」への思い
「市井のちりにまじはらむ」
「文学界」の青年たち
『たけくらべ』
《一葉何者ぞ》
「ただ考へて居るのに候」
《霰(あられ)降る》
「ふるさと」の一葉

樋口一葉は甲州の女?

 樋口一葉は、生きている間も亡くなってからも、周囲の人に「山梨県人」だと思われていたようだ。
死の翌年刊行された「一葉全集」では、わざわざ

一葉女史、樋口夏子君は東京の人なり

とことわっているほどだ。
それ以後も「文学人国記」などにはしばしば「甲州の人」と書かれた。

 一葉は明治五年、今の千代田区内幸町にあった東京府官舎で生まれた。

 『にごりえ』が「文芸倶楽部」に掲載された時、校正にあたったのは、後の作家徳田秋声だった。
女性らしい感情の動きと抑えのきいた文章、他の作家にはないひたむきさを感じ、彼は校正後の自筆原稿を秘かに保存した。
原稿料を届けに本郷丸山福山町を訪ねてみると、甲州人と聞いていたとおり一棄はきつい性格の女性に見えた。

 彼女自身、いかにも甲州人だと思わせるところがあった。
それは実生活の苦闘にもめげず、虚偽や虚栄をみすごさない強さでもあり、周囲の弱者に寄せる姉御(あねご)肌の気性でもあった。

 一葉は日記の中で、政治や社会機構に対する不満をしばしば漏らしている。
自分のことをさしおいて,
貧民をどうしたらいいのか頭を痛めたり、頼ってきた女郎の身柄を引き受けたりした。

 作家有島武郎は、一葉のことを

甲州人の一種の覇気と江戸っ子の切れ味の良さをつきまぜて、その当時に受けていた女性のしがない連命というようなもので包み込んでいるような

気性だという。

 そう思って読み直してみると、『たけくらべ
ぺ』『にごりえ』なども、ただロマンチックな小説とは見えない。
そこには下層社会への熱い共感から生まれたいきどおり、ヒューマニズムのようなものを感じる。甲州の庶民の血を受け継いだ一葉ならではと言える。

 青梅街道沿いに、代々「八左衛門」を名乗る農家があった。青梅街道沿いの樋口家旧宅跡
一葉の祖父の八左衛門は、享和二年(一八○二)生まれ。
後年、真下晩菘(ましもばんすう)と改名し、蕃書調所の勤番筆頭となった益田藤助と共に、中萩原の俊才だったという。

 屋敷を含め一町歩足らずの中農で名主や長百姓ではなかったが、彼は小前百姓の代表格だった。
社会的な関心も高く、樋口家と縁続きの塩山市上粟生野(あおの)の田中きく氏宅には当時の幕府、代官所の触書などの写しも残っでいる。
(現在、この文書は山梨県立文学館に寄託・保管されている。)

 嘉永五年(一八五二)、拍原堰(せき)の水争いに関する、一丁田中の田安陣屋の不当な裁判の解決を求め、彼は老中への直訴を決意する。
小前百姓百二十人の総代として江戸に上り、江戸城辰之口に訴状をさし出す。
いわゆる「直訴」である。
尋問、入牢の末、二か月後に釈放、事件は一人の罪人も出さずに終わった。
甲州では田安騒動が起きるが、その際の幕府の対応同様、この結着の付け方からは、徳川家と田安家との不調和が推測できるように思う。

 「蟷螂(とうろう)の斧(おの)」を振りかざして権威に立ち向かおうとする八左衛門。
市井の片隅の女や貧民、子どもにいつも目を向けていた一葉。
この二人の間に同じ血脈を求めるのはこじつけに過ぎるだろうか。

 『にごりえ』のお力が「祖父」について語るくだりには、祖父八左衛門のイメージがあるという指摘もある。

三代伝わつての出来そこね、親父が一生もかなしい事でござんした。……親父は職人、祖父は四角な字をば読んだ人でござんす。つまりは私のやうな気違ひで、世に益のない反古(ほご)紙をこしらへしに、版をばお上からとめられたとやら

 一方で、八左衛門は学問好きな風流人でもあった。
大窪天民に漢詩を、また、鹿都部真顔(しかつべまがお)に狂歌を習ったほか、早川漫漫(まんまん)らと俳諧もたしなみ、「古今妙奇談記」「名歌雑説」などの著述をまとめた。
蔵書目録や、おそらくは真下晩菘の影響だろう、アルファベットや外国語、世界地図や西洋の算術を含むたくさんのメモやノートも残されている。

 今に残る資料を見ると、八左衛門の筆まめには驚かされる。
これもまた、息子の大吉から一葉にまで伝わったように思われる。
一葉が書き損じ一枚もおろそかにせず、また下書きを保存し、日記に新聞などをまめに書き写していたのはよく知られている。

 明治二十八年、一葉は小説『ゆく雲』を発表。
主人公の野沢桂次の故郷は、一葉の両親と同じく東山梨郡大藤村(現在の山梨県塩山市中萩原)に設定されている。

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父・大吉の夢

 明治維新は士族という名の公務員が一斉に失業した大事件でもあった。
うまく波に乗って転職、転身できた者もいるが、家族や親類縁者、使用人を抱えてこの激しい境遇の変化を乗り越えるのはだれにとってもたやすいことではなかった。父・樋口則義(大吉)
父親が農民から武士、官吏、実業家へと転身した樋口一葉の一家にとってもそれは同じことである。

 一葉の父大吉は天保元年(一八二九)の生まれ。
ところが、慶応三年に八丁堀同心の家の家督相続をして武家になってからは、彼の誕生年は、すべての書類が天保九年となっている。
元年生まれなら三十八歳、九年なら二十九歳。侍になる際の書類上の操作だとする説もあるが、転職・転身するのは若いほうがよいに決まっている。

 大吉が塩山の中萩原にいたころのことはよくわからない。
後年、彼は

生来、農を好まず、経書に心を寄せ

たと記している。父親譲りか、老成した書を書き、慈雲寺の白厳(はくがん)和尚の寺子屋では群を抜いて優秀だったという。天龍山慈雲寺−大吉は白巌和尚の寺子屋で学んだ。が

 近くに住む少女に、古屋安兵衛の長女あやめがいた。
天保五年生まれで大吉より四歳年下である。
幼馴染みだった二人は、二十代のなかばになって互いに恋心を抱くようになる。
が、あやめの両親は二人の結婚を許さない。
大吉の胸の中には、父親から伝わる「立身したい」という野心はあり、あやめの体内には大吉の子供も宿っていた。

 大吉が立身の理想像として胸に描いていたのは、父親の友人で郷党の出世頭、真下晩菘(ましもばんすう)だった。
中萩原の中農の子だった彼は、今や直参の侍となり蕃書調所の取調役として異国の書物を調査していた。

 安政四年(一八五七)、意を決した二人は、真下を頼って江戸へと駆け落ちを敢行した。
旅費の一部は父八左衛門の蔵書の売却と質入れとでまかなわれた。
彼は息子の行動を黙認した。自分が果たせなかった野心を息子の中に見たからかもしれない。

 普通の江戸出府のルートを避け、御坂峠から足柄峠を越えて湘南に出て、七日後には江戸に入っている。
大吉が父親あてに届けたわび状が残っている。
心得違」「存外之不埒(ふらち)」「申訳無」の語は見えるものの、同封された旅日記を見ると、さほどの罪悪感はない。

 その後も大吉は、父親譲りの好奇心で、江戸や供をして大阪出張中の見聞を郷里に書き送っている。
桜田門外の変に触れたものもあり、切迫した時代をのぞかせていて興味深い。

 出府した大吉はさっそく真下専之丞(晩菘)を訪ねる。
「役人桂庵」と自称した真下である。
「桂庵」とは職業あっせん業のこと。
彼は郷里の人の世話に熟心であり、誇りともしていた。真下は二人を引き受けることにする。

 利発で骨惜しみしない大吉は、真下の勤める蕃書調所でも重宝されたようだ。
到着後間もなく生まれた娘ふじを里子にやり、あやめは二千五百石の旗本・稲葉大膳の娘おこうの乳母として奉公に出る。
後の一葉の日記にはすっかり零落した「おこうさま」が、樋口家のなけなしのカネを無心に来る姿が見える。

 真下専之丞・稲葉大膳らに連なる人脈と、夫婦「共働き」でせっせと蓄えた財力とで、大吉は南町奉行配下の同心浅井竹蔵の家督を相続する。
いわゆる「両入り」で養子に入ったのだ。
願いかなって大吉は十手を帯に突っ込んだ「中村主水」ではないが、八丁堀同心という直参の侍となった。
作家「樋口一葉」は「浅井一葉」になっていたかも知れない。

 彼は立身出世の糸口をつかんだかに思われた。
時あたかも慶応三年、幕府の崩壊は翌年に迫っていた。
慶応四年、将軍徳川慶喜は朝敵となり、彼はすでにもうけていたふじ、泉太郎、虎之助の二男一女とともに山梨へ帰ろうとするが、気丈なあやめに反対される。

 維新後、大吉はできたばかりの「新政府」によって、築地の外国人居留地から市中の警備を任される。
その後、心ならずも東京府の小官吏になる。
後、警視庁の「ポリス」も勤める。

 直参の侍が駿府(静岡)その他に「帰農」して、東京(江戸)には空き家が目立った。
一方、薩摩・長州といった「地方」から出てきて、住まいを求める者もいた。
大吉は空き家をチェックし、周旋し、自らも購入することができる立場だった。
半ば自然の成り行きで「不動産取引」をする役回りになっていたのである。
「官員」をしていた大吉だが、収入はサイドビジネスから得る方が遙かに多かった。
本郷菊坂の借家に住むまでの樋口家の転居は、「貧しさ」が理由ではない。参考
いずれ起こってくるだろう新旧官吏の入れ替えを察していた大吉は、不動産取引、金融業、ニュービジネスへの投資など、経済的には何ら不安はなかった。

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戸主・夏(一葉)

 樋口一葉(本名・なつ)が、若くして樋口家の戸主になったことはよく知られている。
帝国憲法下の「戸主」は、まさに家長というにふさわしい絶対の権力(と義務)を備えていた。桜木神社
明治二十一年二月、彼女は十五歳で先祖の墓を含む「家」の一切の所有権、家族の動向についての支配権の両方を持つことになったのである。
さらに「家」を維持する責任をも……。

 この時以来、一葉の人生には他家に嫁ぐという選択肢はなくなった。
まして恋愛は……。
「人間樋口一葉」を考えるとき、これは大きな意味を持つ。

 明治人は一般に隠居する年齢が早い。
一葉の父則義(大吉改め)が長男・泉太郎に家督を譲ったのは五十四歳である。
泉太郎は二十歳だった。

 は病弱で、相続の翌年には肺結核の兆候が現れ、療養のため熱海に三週間滞在している。
その後、西園寺公望らが有楽町の島原邸内に開いて間もない明治法律学校(現明治大学)に入る。
二年の在学ののち、関西に赴いて貿易に従事しようとして、失意のうちに帰京。
肺の疾患はますます進行していた。
父則義が警視庁を退職するのと同じころ大蔵省に入るが、半年もたたない明治二十年、泉太郎は二十四歳でこの世を去る。

 明治二十三年ごろの雑記帳に、一葉は

我兄泉の君世を早くし給ひしより以来柚の涙かはく時なくむねの思ひ絶るまなかりし……

と記す。

 二番目の兄虎之助は、個性が強かった。
これまで、虎之助には悪友も多く、家の物を質入れするなどの行動が目に余り、十五歳で分家された、と言われていた。
いわゆる「勘当」である。
が、山梨県立文学館所蔵の「則義文書」などを見ると、事情が違うようである。

 明治十六年に徴兵令が改定され、兵役免除・徴兵猶予が限定化された。
長男・泉太郎に家督相続したのも、次男・虎之助を分籍して一家の長「戸主」にしたのも、父・則義の「兵役逃れ」の工夫だったとも思われる。

 虎之助は、初め姉ふじの嫁ぎ先・久保木家に預けられ、その後、絵がうまかったので陶工の成瀬誠至のもとへ年季奉公に出た。左:くに、右:夏(一葉)
彼は薩摩錦手(さつまにしきで)の名工に育っていく。
が、もはや樋口の「家」の構成員ではない。

 安政四年、手に手を取って甲州を出奔して以来、夫婦で刻苦して、維新の直前に直参の武家の地位を得た樋口家である。
維新後も東京府の官吏に転職できた。
利殖もうまくいき経済的にも裕福だった。
維新に乗り遅れた小藩の没落士族、例えば、森鴎外や北村透谷たちと樋口家は明らかに異なる。

 彼らの母親が息子に課したものは、極端な教育ママとなって、失われた「家名」を再興することだった。
則義及び一家には、おそらく「没落」の意識はなかった、と思われる。
則義の願いは、順調に歩み出したかのように見える樋口の「家」の存続だった。

 学校では首席、歌塾・萩の舎へ入れば半年後に和歌の競点で最高点。
勝ち気で利発で、十五歳の一葉は則義の期待の星だった。
兄が去ったとき、父親にとっても、また当人にとっても「家」を継ぐのは当然だった。
「家」のための「犠牲」などという言棄とは無縁だった。

 一葉が二十四歳で亡くなると、妹くにが樋口家の「戸主」として吉江政次を婿にし「家」を継いで、現在に至る。

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学校は止(やめ)になりけり」

 明治十年、四歳十か月で樋口一葉は本郷学校に入学する。路地の奥が法真寺・文京区本郷(東京大学「赤門」向かい)。『ゆく雲』の野沢家の隣。一葉が裕福な少女時代を過ごし「桜木のやど」と回想している。
けれども、二十日余でここをやめてしまう。
いっしょに通っていた兄虎之助が退学し、幼い一葉は一人で通うことができなくなったのだ。

 秋、彼女は自宅に近い本郷四丁目の私立吉川小学校に入りなおし、小学読本や四書の素読を受ける。

 一葉の回想によれば、彼女は書物、それも「英雄豪傑・任侠義人」の「勇ましく花やかな」話を読むことを好んだ。
父親の則義も読書人で蔵書家だった。
一葉は蔵の中で草双紙に読みふけり、これが強度の近視のひとつの原因になったとも言われる。

 おとなしく、もの覚えのいい子という評判だったが、内に秘めた負けずぎらいの精神と上昇思考はかなり強かったようだ。

かくて九つ計(ばかり)の時よりは我身の一生の世の常にて終らむことなげかはしく、あはれ、くれ竹の一ふしで出でしかなとぞあけくれに願ひける。(日記「塵之中」)

法真寺では毎年11月23日には文京区一葉忌がもたれる。もともと寺が独自に行っていたのが発展したもの。

 明治十四年十一月、今度は下谷黒門町にあった私立青海学校へ転入した。
ここで彼女は福島出身の松原喜三郎に和歌の手ほどきを受け、こんな歌を残している。

筆 ほそけれど人の杖とも柱とも思はれにけり筆のいのち毛

『ゆく雲』で触れられる法真寺の「腰ごろもの観音」。温和な表情である。

 二年後、小学中等科第一級を五番、続いて高等科第四級を首席で修了。
三級に進まず退学する。
これには

女子にながく学問をさせなんは行々(ゆくゆく)の為よろしからず、針仕事にても学ばせ家事の見ならひなどさせん

という母たきの意見があった。
父則義は

猶(なお)今しばし

と抵抗し、なつ自身の気持ちも問い詰められるが、母親のけんまくに圧倒され

死ぬ計悲しかりしかど学校は止(やめ)になりけり

ということになった。
友人との交流や関心のありどころを見ると、学校というものに対するあこがれは、生涯一葉を支配していたように思われる。

 その後、一葉は女子師範学校の初等科に一時的に在籍する。
小石川安藤坂
 明治十二年の教育令、その後の改正を経て、小学校の義務教育制は法文化されていった。
けれども、就学率が三十%を超えることはなかった。
ひとり一葉の母親だけが無理解だったわけではなかろう。

 同十九年、学校令。
小学校から帝国大学にいたる教育制度が確定する。
則義は、なんとかして一葉を小学校に編入させようとするが果たせなかった。
一葉は十四歳で年齢制限を一歳超えていたのである。

 明治二十二年、父・則儀が亡くなり女所帯の家計は困難をきたす。
歌塾・萩の舎の師匠中島歌子は、一葉を伝通院近くの淑徳女学校の講師に推薦しようとする。
歌子は一葉の学歴を知らなかった。
女学校就職はかなわなかった。
一葉は和歌のけいこの席にも出ず、萩の舎を手伝う日々だった。

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萩の舎に学ぶ

 樋口一葉が小石川の私塾・萩の舎に入ったのは、明治十九年、十四歳の時だった。
彼女はここで和歌、書、古典文学を学ぶ。三角屋根のビルの位置が萩の舎の跡(小石川安藤坂)

 主宰の中島歌子は水戸の勤皇派・林忠左衛門の未亡人で、加藤千浪(ちなみ)門下の歌人だった。
千浪の没後、歌子は宮中御歌所派の小出粲(つばら)、高崎正風、伊東祐命(すけのぶ)らの支援で塾を開く。
門弟には皇族、華族、高官の令嬢、夫人が多く、一葉が入ったころ、門下千人と言われた。

 一般に言われるほど、一葉の生涯はいつも貧困に彩られていたわけではない。
当時父則義は警視庁に在職し、不動産業ほかの収入で家計は安定していた。
学校を退かせた一葉を、彼はとびきりハイクラスの塾へ通わせたのである。

 例年二月、塾では一年の稽古(けいこ)の発会を行った。
二十年、一葉は初めてこれに参加する。
毎週土曜日の稽古日には、彼女は連続して最高点をとっていた。
発会当日、弟子たちは三つ重ねの紋付きを着てずらりと居並んだ。
一葉が身に着けていたのは、母親が用意した緞子(どんす)の帯と八丈の重ねだった。

 当日課せられた和歌の題は「月前柳」。
彼女は、

打ちなびくやなぎを見ればのどかなるおぼろ月夜も風は有(あり)けり

と詠んで、六十人余りの中でやはり最高点だった。
彼女は悔しがる先輩、田辺龍子らにぽんぽんと背中をたたかれる。

 一葉のもっとも古い日記「身のふる衣まきのいち」は、この日の華やかな塾生たちと自分との対照を感傷的に描いている。
単に服装の違いというのではない。
生まれながらに上流である娘たちの屈託のなさと、両親が辛苦して、ほんの二十二年前に武家となった家の娘である自分。

 和歌の競点で得られる面だたしさと、塾にただよう上流社会の空気への気後れ。
これは彼女に常につきまとっていたようだ。
黙り込んで畳ばかりを見ている「物包みの君」=陰気な娘が、不意に、だれかの口ずさむ「赤壁(せきへき)の賦(ふ)」のあとを得意気に続けるというふうだった。

 仲のよかったのは、建築請負師の未亡人・田中みの子と日本橋の富裕な商家の娘・伊東夏子である。
三人は自分たちを「平民組」と称し、萩の舎の空気に懸命に抵抗しようとしていた。

 皮肉なことに、旧士族としては例外的なほど順調だった樋口家の経済は、間もなく行き詰まって来た。
兄泉太郎の療養と父親の事業の失敗。
開化期のニュービジネスへの投資のこげつき、あるいは、知人に用立てて戻らぬ金。
二人の死。二十二年以降、これらはたちまち樋口家の家産を押しつぶす。

 萩の舎での一葉の違和感はますます募っていく。
みずからが優秀な生徒であったその歌風にやがて彼女は疑問を抱き始める。

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半井桃水の教えた小説

 明治二十二年(一八八九)、樋口一葉は父大吉を失くした。
その二年後、二十歳になった一葉は、小説で身を立て、父のいない家庭を支えていくことを決意する。

 彼女は「東京朝日新聞」の小説記者だった半井桃水(なからいとうすい)の指導を受ける。

 明治二十四年四月、一葉は妹くにの友人の招介で桃水を訪ね、小説の指導を請う。

色いと良く面おだやかに少し笑み給へるさま、誠に三歳の童子もなつくべくこそ覚ゆれ、丈(た)けは世の人にすぐれて高く、肉豊かにこえ給へば、まことに見上る様になん(一葉「若葉かげ」)
三指(みつゆび)で畏(かしこま)つてろくろく顔も上ず、昔の御殿女中がお使者に来たやうな有様で、万に一つも生意気と思はれますまいか、それのみ心を砕かれるやうでありました。(桃水「一葉女史」)

 初対面の互いの印象である。
桃水三十一歳、一葉は間もなく十九歳。
こちこちに緊張して伝統的な弟子入りの型にのっとってあいさつした一葉の姿が目に浮かぶようだ。
彼女の目に映る桃水は、たくましく温和で美男だった。

 筋だての面白さや分かりやすさを主眼とする新聞小説の書き方を、彼は一葉に手ほどきした。
一日も早く原稿料の取れる小説を書かせたかったからだ。

 けれども彼女は欲ばりだった。日記に言う。

〈(現代語訳)小説を書こうとしてもう一年になるが納得できるものがない。衣食のためとはいえ、一度読んでくずかごへ捨てられるようなものは書きたくない。富よりも永遠に残る名のために筆を汚したくない。〉

 一葉の意思を知って、桃水は新聞に小説をあっせんし、文壇の大御所・尾崎紅薬に彼女を紹介しようとする。

 一葉が小説の書き方について述べた興味深い資料がある。
友人、伊東夏子が斎藤緑雨の求めに応じて、今は亡き一葉と萩の舎の「ある人」とのやりとりを、回想して書き留めたものである。

ある人小説はいかにして種をつくり給ふや
一葉……種をうりにくるものがある……いろいろの者がきてさまざまの話をしますので聞(きき)ておきて其(その)うちを題にしてかくものもあり、まるであとかたの無きものもあります

 ここには旧派の新聞小説記者、桃水が、一葉に伝授しようとした小説作法のなごりがある。
集められた種を取捨選択して「話」に仕立てる。
こうした文学のなりたちは、一葉の文学的素養の根幹、たとえば源氏物語などとは、もともと異質なものだったはずである。
それは人間心理のうつろいと交錯で成り立っていた。

 明治二十四年の末、一葉は片恋をテーマとした作品、『闇桜』の構想を練っていた。
どうしても筆の進まぬ彼女は桃水に、恋する者の心理、その果てに心中する男女の感情について問う。
桃水の答えは明晰だった。
そんなものはだれにも分からない。
凝った趣向、自然な筋立、二人が心中に至る段取りをこしらえて、読者を納得させればいいのだ……。

 彼女は自らのめざす文学と桃水のそれとの違いをはっきりさとった。
一葉がこの作品に凝縮しようとしていた思いは、けっして「こしらえもの」ではなかった。
現に桃水を目の前にしての感情の高ぶりなのである。

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初期作品と男友達

 処女作『闇桜』は、明治二十五年(一八九二)、桃水の創刊した「武蔵野」に発表された。
会話のテンポの良さなどには、すでに後年の一葉らしさが現れている。
けれどもヒロインの千代が、幼なじみの良之助に思いを告げられず、恋わずらいで死んでいくという筋立ては、余りに古風で作者のナルシシズムが濃厚な作品だった。

 作中の千代と良之助は六つ違いで、一葉と幼なじみの渋谷三郎の姿が投影されているとも言われる。

 死を予感した父・大吉は渋谷に娘一葉との結婚を強引に約束させた。
彼女自身、渋谷との結婚を承諾していたが、父の死後、話は消滅する。
樋口家では渋谷の一方的な裏切りとして受け止めた。

 その後も、彼は樋口家に出入りし、二年後、改めて求婚する。
小説家への道を歩み出したばかりの一葉は、〈憎いわけでも意地でもなく〉縁談を断る。
とは言え、やはり「女の意地」というところだろう。
『闇桜』にも、臨終間近の千代が愛する良之助をかたくなに遠ざけようとする、意地っぱりな姿が描かれている。

 桃水には一葉の職業作家への道を拓く力量はなく、二人の間柄を醜聞のように言ううわさも萩の舎に広まっていた。
歌子からも伊東夏子からも義理と家名のどちらを取るかと詰問される始末だった。

 二十五年夏、一葉は心ならずも桃水に指導を受けることを断念する。
とはいっても、一葉の桃水への思いと彼から授かった小説作法も一緒に捨てたわけではなかった。

 一葉の初期の作品には共通したパターンがある。
零落した家の美しい娘と、学歴が高く将来を嘱望されている男。
男は献身的に尽くすのだが、幼すぎたり意地っぱりだったりする娘は、それを受けとめることができない。
男は熱烈な愛情告白をするものの、やがて出世して遠くへ去ってしまう。
この時になって、娘は男への愛に目覚めるのだが、時すでに遅く「なくてぞ人は恋しかりける」=喪失の意識ばかりが強い。

 明治二十五年(一八九二)、一葉が「春日野しか子」のペンネームで、郷里山梨の「甲陽新報」に連載した『経づくえ』も、その例である。

 当時「甲陽新報」に勤めていた野尻理作は、一葉の親と同郷で、生家は造り酒屋だった。
東京帝大在学中は、父・則義(大吉改め)が身元保証人となっていたから、一葉(なつ)とも妹の邦子とも幼なじみだった。
小説家の道を歩みだしたばかりの一葉に、彼は紙面を提供する。

 野尻がモデルだといわれているのが、明治二十八年(一八九五)に発表した『ゆく雲』である。
作品の中で、野沢家の養子・桂次は東京で勉学に励む。
下宿している義理の叔父の家に前妻の娘お縫がいる。
桂次は自分と境遇の似た縫に同情的である。
彼は心ならずも家付き娘のお作と結婚し、養家を継ぐことになる。
桂次は縫に愛情を告白する。
戸惑いながらも縫は次第に心を開く。
帰郷した桂次は、最初のうち手紙をひんぱんによこすが、そのうち間遠になる。
ふたたび自分の殻に閉じこもる縫。

 縫には、野尻に思幕を抱いていたといわれる妹・邦子、あるいは一葉自身をほうふつとさせるところがある。
桂次の姿と重なる野尻は、帰郷後、甲府の愛宕(あたご)町に、一生入籍することもなかった大分県の士族の娘・西山加寿子との生活を始めていた。

 明治二十八年当時、一葉は命の残り火を燃やしながら『たけくらべ』『にごりえ』と、目覚めつつある明治の女を名文に結晶させ、文名を高めていった。
そのかたわら、「半井桃水・渋谷(阪本)三郎・野尻理作」と書いては消した吐息のような落書きが残っているという。
彼女はどんな思いでこれを書きつけていたのだろう。

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「歌」への思い

 小説家「樋口一葉」とくらべ、歌人「夏子」=本名=としての一葉の印象は薄い。
けれども、膨大な日記からも、彼女の二十五年足らずの人生の過半は、和歌との格闘で占められていたことがわかる。
小説執筆はこれに重なるわずか五年ほどの間にすぎない。

 明治二十六年、彼女は今までの自分の歌に否定的になっていた。

やうやう我心によの中の哀れといふこと思ひしるままに、月にも花にも感ふかく成(な)りて、心のうちにしのびがたきふしぶしをかたはしもらすにこそ、真の情はこもり侍れ、

歌論に見せかけながら、ここに現れているのは一葉自身である。
だれにも祝福されず、自らも認めるわけにはいかない半井桃水への恋心は、彼女を女として深め、ものみなに感じやすくさせていた。

はかなきにおもひゆるしてしら露の哀れ玉よと君みましかば

 桃水への「真の情」がこもるゆえに、彼女はこれらの歌を歌会で公表することはできなかった。
伝統的な題詠主義を守る萩の舎でも受け入れられなかっただろう。龍泉寺旧居跡−表示板あたり。荒物駄菓子屋を開いた。
鳳(与謝野)晶子が『みだれ髪』を世に問うのは、これより七年も後のことである。

 当時、塾内で続いていた老歌人たちの内紛も一葉にはいとわしかった。
師の歌子や門弟たちの醜聞もあさましく思われた。

 歌をけっして手放すことのなかった一葉だが、萩の舎との距離は時の流れの中でさまざまに変化した。

 同年二月の発会以降、一葉の足は次第に萩の舎から遠のく。
夏、一家は家計の困難を解消するため、下谷龍泉寺に駄菓子荒物店を開く。

いでやこれより糊口(ここう)的文学の道をかへて、うきよを十露盤(そろばん)の玉の汗に、商ひといふ事はじめばや。もとより桜かざしてあそびたる大宮人のまどゐなどは昨日のはるの夢とわすれて……

 しかし、結局和歌が一葉を放すことはない。鐙あぶみ阪。菊坂の家の崖上。
仕入れは引き受けたものの、彼女は商売には熟心ではなかった。
机にかじりつく合間には上野の図書館へ通った。

 しかも、商いは家計をさほどうるおさず、はりきって始めた「塵中百首」も十五首でゆきづまる。
小説も『花ごもり』『琴の音』の二作にとどまった。
駄菓子荒物屋は一年で廃業。彼女はふたたび和歌へ専念しようとする。

 一葉は最後の最後まで、心の動揺さながらに、萩の舎に寄り添ったり離れたりをくりかえす。
萩の舎の助手を務めたり、歌塾経営を勧められたり、果ては萩の舎の後継者に請われたり、主宰・歌子の働きかけは熱心だった。
和歌の世界はやはり魅力的だった。
自らの思いの表白形式としても、「糊口」の手段としても。

 明治二十九年九月九日、病をおして一葉は荻の舎の歌会へ出席する。

ページのトップへ本郷菊坂の旧宅跡。ここで樋口家は持ち家から借家住まいとなる。あたりは学生下宿が多かった。

「市井のちりにまじはらむ」

 一葉が生まれてからでも樋口家は十五回転居している。

 父を亡くした翌年の明治二十三年、一家は本郷菊坂に移る。
この時から百年近くにもなるのに、菊坂の路地に立つと今でも名状しがたい思いが胸にこみあげてくる。
モルタル造りの家並みに変わった狭い路地の突き当たりは、木戸で四角に切り取られた石垣。
石垣は遥か上方までそびえている。
路地の上の空が細い。
ここは都会の中の谷間のようだ。

 一葉の住んだころ、台上には上級武士の屋敷が居並び、台下には下級武士や町人の家が身を寄せ合っていた。菊坂旧居から鐙坂方面。
やや猫背で小柄な一棄は、ここから坂を上り、また下り、ひそかに思いを寄せていた西片町の半井桃水宅や上野の東京図書館、小石川安藤坂の萩の舎に通ったのだ。

 一家ははじめ一戸建てに住み、間もなく隣の手狭な長屋に転居する。
母、妹との女所帯は針仕事や洗濯の仕事で支えられていた。

 同二十六年夏、「糊口的文学」の途をあきらめて実業に就こうとした一葉は、また、転居先を探す。
駒込などの山の手は客がつきそうにない。
牛込神楽坂辺りは知った人に見られそうだ。
歩きまわること三日、下谷龍泉寺町、土地の者が大音寺前と呼ぶ横丁に、間口二間奥行き六間の貸屋を見つけた。
日当たりや風通しもよさそうだし、母の気に入りそうな小さな裏庭もあった。

此の家は下谷よりよし原がよひの只一筋道にて、タ方よりとどろく車の音、飛ちがふ灯火の光、たとへんに詞(ことば)なし……家は長屋だてなれば、壁一重には人力ひくおとこども住むめり

 師友に転居先を告げ、あいさつ状も十通ほど投かんする。が、親しい者にも彼女は訪問を断る。初めての夜、一葉は師・桃水をしのんで日記にこう記す。

唯かく落はふれ、行ての末にうかぶ瀬なくして朽(くち)も終らば、つひのよに斯(こ)の君に面を合はする時もなく、忘られて、忘られはてて、我が恋は行雲のうはの空に消ゆべし

まさに

万骨をすてて市井のちりにまじはらむ

という思いだった。

 隣人とかわす天候のはなしや決まりきったあいさつの大切さを、一葉は初めて知る。土蔵は伊勢屋質店(菊坂上通り)

 老若男女の暮らしの物音、におい、世間ばなし、もめごと、いっさいが彼女には新鮮で、しかも痛切だった。
ここには国家や時代のとばっちりが吹きだまっているようだった。

 桃水言うところの小説の「種」を、一葉は自ら拾い集め始めた。
それは彼女自身の実感とやり場のない憤りに裏打ちされていた。
彼女は確実に変わりつつあった。

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「文学界」の青年たち

 孤軍奮闘の印象の強い一葉だが、彼女はけっして孤立していたわけではない。
周囲にはいつも談論の輪があった。
萩の舎の仲間、「文学界」の青年文学者たち、「しがらみ草紙」の森鴎外、幸田露伴らの大御所、晩年の新聞各紙や出版社の編集者。

 一葉と日本の浪漫主義の金字塔となった文芸誌「文学界」との機縁が生まれるのは、明治二十五年までさかのぼる。
竜泉寺かいわい。一葉煎餅せんべい。
 彼女は半井桃水に小説の指導を受けることを諦めかけていた。
一方で桃水の著書に歌を寄せたり、流行作家尾崎紅葉への紹介も頼んでいる。
家計はますます窮乏する。
かつて父親がフィアンセに選んだ渋谷三郎は、人を介して改めて求婚の意志を伝えて来る。
渋谷は早稲田での知人の坪内逍遙や批評家・高田早苗に一葉を紹介しようとする。
一葉は周囲にふりまわされ、思いは千々に乱れていた。

 そんな折、一葉は星野天知の依頼で、萩の舎の先輩・田辺花圃に「文学界」創刊号への執筆を勧められる。
彼女はこの未知の文芸誌に興味をひかれる。
「文学界」に結集することになっていた青年たち戸川秋骨、平田禿木らも彼女の小説に注目していた。
主宰と目される天知は「文学界」の前身「女学生」誌上で、「都の花」に載った『うもれ木』を激賞する。

 彼女の初登場は二十六年三月第三号の『雪の日』である。
以後、断続的だが『暗夜』『大つごもり』『たけくらべ』ほかを次々と発表。
明治の浪漫主義文学の先駆け・「文学界」は北村透谷の評論、島崎藤村の新体詩、それに一葉の小説で意義を高めることになる。

 同人は天知(一八六二年生まれ)や戸川残花(一八五五年生まれ)のほかは、一葉と年齢が近かった。
西洋の文学を熱心に追い求め、キリスト教信仰を基盤とする文学の姿勢にも、真摯(しんし)なところがあった。
前身である「女学雑誌」以来のフェミニズムも濃厚だった。

 彼らはひんぱんに一葉のもとを訪れる。
面と向かうと、彼女が女である大音寺(龍泉寺町)。『たけくらべ』の「龍華寺」のモデル。新吉原に檀家が多かった。信如のモデルとされる少年がいた。ことを忘れ、初々しく熱心な文学談義にふけった。
が、同人だけになると、女であることが意識され、互いに牽制し合った。
『やみ夜』や『嵐が丘』にちなむ「お蘭さま」あるいは「ブロンテ」が彼女の愛称となっていた。
丸山福山町の一葉の家は貧しくも志の高い文学サロンだった。
けれども、日記を見る限り、彼女はけっして周囲の熱に感染されてはいない。
姉のように彼らをさとし、もてなした。
皮肉っぽくはなくむしろ温かかったが、一葉は彼らにいつもアウトサイダーのまなざしを向けていた、と言える。

 馬場孤蝶のよく知られた一句の示すように、「文学界」の人々は、生前はもちろん没後も、東京の下町の路地のそこここに一葉の存在を肌身に感じとっていたにちがいない。

一葉の住みし町なり夕時雨

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『たけくらべ』

廻れば大門の見かへり柳いと長けれど、おはぐろ溝(どぶ)に燈火うつる三階の騒ぎも手に取る如く……大音寺前と名は仏くさけれど、さりとは陽気の町と住みたる人の申き。
朝湯の掃りに首筋白々と手拭さげたる(美登利の)立姿を、今三年の後に見たしと、廓(くるわ)がへりの若者は申き。
此時節より通ひ初(そむ)るは浮かれ浮かるる遊客ならで、身にしみじみと実のあるお方のよし、遊女(つとめ)あがりの去る女が申き。

 『たけくらべ』の物語を運ぶのは、街の人々のうわさや陰口である。
全体が街の声の集積でできているといってもいい。
その合間を雑多な物音や色彩が埋める。
ここから色町に近い裏路地の「子供の情景」が浮かび上がってくる。
そして、明治の東京が。

 『たけくらべ』には筋らしい筋もない。千束神社(稲荷 台東区竜泉)。『たけくらべ』で「横町組」と「表町組」の子どものけんかの舞台。龍泉の氏神。当時はやや西よりだった。
八月の千束神社の祭礼から十一月の大鳥神社の酉の市までの、表町組、横町組の子供のいざこざ、娘から女へと生い立つ美登利、龍華寺を継ぐことが運命づけられた信如、二人の幼い思幕とすれちがい……。

 公立学校へ通う質屋の孫・正太郎が頭となる表町組。
裕福だから町内の若い衆も従えて羽振りがいい。
構町組は鳶(とび)の頭の子で、私立の育英舎に通学する長吉以下、車屋の丑松、元結よりの子文次、手遊(おもちゃ)屋の弥助……。
勉強もでき、大人やこの色街に染まることのできない信如。
横町組からは一目置かれ、表町組からはけむたい存在である。

 一方、街の猥雑(わいざつ)な空気になじみ、目いっぱいわがままな美登利。
気前のよさで彼女は正太郎をはじめ「子供仲間の女王様」である。

 表町と横町の子供の対立は、そのまま大人の世界の写し絵と言っていい。鷲おおとり神社(千束)。熊手を売る「お酉さま」で有名な商人の神様。だ。

 「先住民」である横町の人々は社会の変貌の泥水をもろにかぶっている。
農業の神、千束稲荷の氏子でもある。
表町には新興の裕福な人々が拠る。
彼らは富の神、大鳥神社を信心する。
富と権力への「信仰」をもたらした文明開化は、子供の世界にもかげりを落としている。
早晩、彼らは大人の社会に入ってゆかねばならない。
金を稼いで早く「おいらん」を買いに行きたいという子供の言葉には、ドキリとする。

 時雨の中、鼻緒を切らした信如に美登利の投げ与えた友禅ぎれ。
彼女が吉原に入る日もそう遠くない。
真宗の学舎に学ぶことになった信如が、美登利のいる大黒屋の寮の門先に水仙の造花をさし入れる末尾……どこもきらきらと美しい。
けれども、やり切れないほど哀しい。

 このような状況を一葉に見抜かせたものは、一体何だったのだろう。
また、表現に定着させたものは。

 彼女が下谷龍泉寺に住んだ期間は、わずかに十か月にすぎない。明治20年代からの天ぷら屋、桜鍋屋(日本堤)。新吉原大門の向かい。

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《一葉何者ぞ》

 『たけくらべ』を読んでいて、全く自在に、しかも過不足なく、一葉の筆が運ぶようになったのではないかと思えるところがある。
それは九、十節あたりから結末にかけてで、読んで快くすらすらと頭に入る。
執筆中の「たけくらべ』が次第に評判になっていたことも、彼女の気持ちを楽にしているのだろうか。

 『たけくらべ』は明治二十八年一月の「文学界」二十五号から二節ずつに分けて連載された。
とはい菊池寛撰文の一葉記念碑(台東区一葉記念館入口)。初め昭和11年に建碑。竜泉の旧居跡で戦災のため焼失。昭和24年、小島政二郎の補筆で現在地に再建される。え、初めから評判の読み物だったというわけではない。
創刊号こそ二干五百部を売った「文学界」だが、二号からの発行部数は千五百部、四号以降は千部だったという。
常連はあったものの、いかにも限られた読者層の文芸誌だった。

 世間が『たけくらべ』に注目し始めたのは、著名な新聞や誌上に掲載された他の作品に目をみはってから後のことだ。
『軒もる月』(毎日新聞)『ゆく雲』(太陽)『経づくえ』(文芸倶楽部)。
ことに『にごりえ』(同)以後、一葉の評判はにわかに高まった。

 十月はじめごろの日記で、彼女は

やうやう世に名をしられ初て、めづらし気にかしましうもてはやさるる……うれしいなどいはんはいかにぞや、これも唯めの前のけぶりなるべく、きのふの我と何事のちがひかあらん

と当惑げだ。「文芸倶楽部」に再掲載されたときの『たけくらべ』肉筆原稿(明治29年筆)。現在山梨県立文学館で保管。

 翌二十九年一月『たけくらべ』は完結。ただちに博文館の大橋乙羽の求めで「文芸倶楽部」にまとめて再掲載される。

 反響は大きかった。正岡子規は新聞「日本」紙上で

一行読めば一行に驚き一回を読めば一回に驚きぬ……西鶴を読んで佶屈(きっくつ)に失せず平易なる言語を以て此緊密の文を為すもの未だ其の比を見ず……一葉何者ぞ

と賛辞を連ねた。

 なかでも「めさまし草」の森鴎外、幸田露伴の手放しの賛辞は一葉の評価を決定づけた。
日記中、五月二日の夜の記述は、彼女の周辺の狂喜ぶりを活写してあますところがない。

 一葉宅を訪れた同人の平田禿木、戸川秋骨は、開口一番

今夜は君におごってもらおう

 いぶかしがる一葉に秋骨が懐の「めさまし草」を示して語るのは、

けふ大学の講堂に上田敏氏の持来て……かくかくしかじかの評鶴外、露伴の手に成て、当時の妙作これにとどめをさしぬ、うれしさは胸にみちて物いはんひまもなく、これが朗読大学の講堂にて高らかにはじめぬ……平田は顔をも得あげずに涙にかきくれぬ……今文だんの神よといふ鴎外が言葉としてわれはたと一葉記念公園の佐々木信綱筆「一葉女史たけくらべ記念碑」昭和26年建碑。(台東区竜泉・一葉記念館前)。へ世の人に一葉崇拝のあざけりを受けんまでも此人にまことの詩人といふ名を贈ることを惜しまざるべしといひ、作中の五六字づつ今の世の評家作家に技量上達の霊符として飲ませたきものといへる(幸田露伴の評)あたり、我々文士の身として一度うけなば死すとも憾(うらみ)なかるまじき事ぞや

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「ただ考へて居るのに候」

 一葉の短い生涯の終着点となったのは、本郷丸山福山町の路地裏、崖下の仮ずまいだった。

うしろは丸山の岡にて物しづかなれど、前なるまちは物の音つねにたえず……となりに酒うる店あり、女子あまた居て客のとぎをする事うたひめのごとく遊びめに似たり

 一葉の作品の中でも秀作とされる『大つごもり』『にごりえ』『十三夜』『わかれ道』『たけくらべ』は、ここでの十四か月間に集中現在の新吉原歓楽街。している。

 日記を見ると、作家、評論家のほか執筆依頼の新聞社、出版社の来客、来信がずいぶん多かったようだ。
当時の代表的な出版社である博文館には、実用百科の一冊『通俗書簡文』(29年5月刊)の書下ろしを頼まれ、春陽堂には専属作家となるよう求められる。

 一葉もくぎりがつくまでは三晩でも四晩でも徹夜という自身の不遇にムチうつような烈しい執筆を続ける。
まわりの熱狂にはむしろ懐疑的だった。

 頭痛、肩こり。
もともと頑健とはいえなかった体にはこれがこたえた。
歯をくいしばっての執筆にも次第に虚しさを覚える。

何事ぞ、おととしの此ころは、大音寺前に一文菓子ならべて乞食を相手に朝夕を暮らしつる身也……草端の一蛍、よしや一時の光をはなつとも、空しき名のみ、仇なるこゑのみ

 明治二十九年の春ごろから、彼女に結核の症状が現れ始める。
四月には喉が腫(は)れ、七月になると三十九度の高熱が続く。
このころの感想や友人あての手紙を見ると、虚無感やそれを通り越した諦観(ていかん)のようなものが漂い、胸が痛くなる。

 一葉書簡のうちでも特に重本郷丸山福山町の崖。この左手に一葉終焉の家があった。要とされる一通が山梨県立文学館にある。
五月三十日、英語教師として近江の中学に赴任している馬場孤蝶にあてた長文の手紙である。

 彼女は体の不調と気分のふさぎを訴え

おもしろしと思ふ事もなし、筆とりてものいはんといふやうな力を入るることもなし

と言う。

日々考へて居り候、何をとの給ふな、ただ考へて居るのに候

と『罪と罰』のラスコーリニコフのような台詞さえ……。

たかが女に候もの、好い着物をきて芝居でもみたい位の望みがかなはねば彼のやうにぢれてゐるのであらう、といふやうな推察をされて馬鹿にされて嘲弄されてこれで五十年をやつさもつさに送つて、そして死んでしまふ事を思ふに其死ぬといふ事はおかしくてやつとほほゑまれ候

 彼女の晩年の孤独を知る者は多くない。岡田八千代撰文「一葉樋口夏子碑」(本郷丸山福山町)。昭和27年建碑。
孤蝶、後に『日本の下層社会』を書く横山源之助、それに、文壇きっての毒舌家・斎藤緑雨くらいなものだった。

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《霰(あられ)降る》

 十一月は一葉忌の季節である。
東京・下谷竜泉の一葉記念館、また、本郷の法真寺でも二十三日を中心に一葉記念祭が催される。

 両親が青雲の志に燃えて後にした塩山の中萩原。
一葉が実生活との格闘に明け暮れ、しかし、名作『たけくらべ』の想を得た下谷。
両親とも健在で、日の当たる「桜木の家」のあった本郷。
あの半井桃水が住み、終(つい)の住処となったのもここである。
一葉が痛切な思いを繋いだであろう地に今年も心寄せる人々がたたずむ。

 明治二十九年十一月二十三日、妹・くにが気づいた時には、一葉はすでにこときれていたという。
樋口一葉、肺結核で没。
享年二十四歳六か月だった。
通夜には川上眉山、斎藤緑雨、戸川秋骨らが座った。

霰(あられ)降る田浄閑寺(三ノ輪)新吉原の遊女のいわゆる「投げ込み寺」。合奏したこの塚の中は骨壺が一杯。2万5千霊の遊女が「投げ込まれた」。「生きては苦界、死しては浄閑寺」。永井荷風の巨大でセンチメンタルな詩碑がある。町に太鼓聞く夜かな   緑雨

 一葉作品を残そうとする動きは早かった。
死のニか月後には、すでに博文館から「一葉全集」が刊行されている。
ただ、作業を急いで校正が不十分だった。
緑雨は早速手ずから校訂を行い、五か月後、「校訂一葉全集」を同じ博文館から刊行する。

 一葉を偲(しの)ぶ人々も、あとを絶たなかった。
七周忌を迎えるころには旧「文学界」同人、与謝野寛・晶子、岡田八千代、蒲原有明らで一葉会が作られた。

 明治四十一年、築地本願寺に百五十人が集い、十三回忌の法要が営まれた。
その時の写真のかたわらには五人の子の母となっていた邦子がたたずむ。姉に代わり樋口の家を継いでいた彼女は、夫の政次と共に姉の資料を後世に伝えるべく心を砕いてきた。

 東京日日新聞は当日の様子を

来会者に最も多きは廿二三の学生連なりこは後年故人の作を読んで崇拝者となりし面々なるべく

と述べ、馬場孤蝶が

生きていて意味ある事業を為し得ざる自分は……故人に対し哀悼する資格なきものなり

と語ったと報じている。
塩山慈雲寺一葉碑建碑の日(大正11年7月)。前列左から3人目馬場孤蝶、右へ戸川秋骨、半井桃水。後列左から2人目邦子の子(一葉の甥)悦、その前、渋谷三郎、右後邦子。

 『ゆく雲』の主人公に

見わたす限りは天目山、大菩薩の山々峰々垣をつくりて、西南にそびゆる白妙の富士の嶺……

と語らせた塩山の大藤村は、一葉の心のふるさとでもあっただろう。

 いま、青梅街道沿いの桃畑に塩山一葉会などの手になる樋口家屋敷跡の標柱がある。

 また、県道大菩薩線から入った天竜山慈雲寺には、死後二十七年を経た大正十一年七月、一葉を忘れられない文壇人、ふるさとの人々によって碑が建てられた。

 大正十一年、横浜で生糸の仲買業を営む広瀬弥七は、一葉碑建立を邦子に申し出る。
広瀬は塩山中萩原の出だった。
再三辞退した邦子も熱意に動かされ、七月、中萩原の天竜山慈雲寺に一葉女史碑が建立される。
一葉晩年の支援者で、死後も日記の刊行などに尽力した幸田露伴が撰文に当たった。
わが国初の漢字かな交りの碑文は、高さ三メートル、幅一・五メートルの山梨石和産の山崎石に刻まれた。
碑陰には時の文学界を代表する人々が名を連ねる。
当然、地元塩山の人々、中村星湖、三井甲之など山梨出身の文士の名も見える。
傍らに江戸で一葉の両親を支えた真下晩菘の碑。

 二十四歳六か月の生涯に残した小説二十一篇、和歌三千余首、日記四十四巻……けっして多くはない一葉作品が現代に伝わるのも偶然ではない。

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「ふるさと」の一葉

 塩山市中萩原の樋口家は、一葉の父大吉が江戸に出奔したあと、大吉の弟喜作が継いだ。
喜作の跡取り幸作が没した時途絶えた。塩山一葉碑碑陰。
樋口家には一葉の祖父八左衛門の代からの書簡を中心とした多数の文書が残っており、その ほとんどが後に喜作から喜作の長女はんの嫁ぎ先の田中為重(同市上粟生野)の元へ移された。
為重の長男幸男(昭和五十二年没)、きく夫妻がこれを受け継ぎ、現在は「田中家文書」として、きくさんが保管している。
(現在は山梨県立文学館に寄託・保管されている)

 この文書は終戦後、日の目を見た。
小説『大菩薩峠』の勝縁荘主人として知られた地元の一葉研究家、益田勝俊氏が掘り起こしたもので、一葉の書簡三通をはじめ、八左衛門関係の文書数点、大吉の日記、書簡約六十点など計約七十点。
一葉の書簡は明治二十七年三月の幸作あて、同二十九年五月の親せきのくらあて、田中家あての計三通。
すべて「一葉全集(第六巻)」(筑摩書房)に収録されている。

 一葉の研究に比べ、八左衛門や大吉の文書研究はまだあまり進んでいない。
田中家には幸男さん存命中から一葉研究者が来訪していた。
一葉研究の第一人者で元二松学舎大学長・塩田良平氏、塩田氏とともに前記「一葉全集」を編集した一葉研究家、和田芳恵氏がその代表。
三十年ほど前、和田氏は一週間泊まり込みで文書に向かい

この文書は門外不出にしてほしい。一葉研究が終わったら私が研究したい

と幸作さんに頼んだが、果たさず他界した。

 学生や愛好会なども文書や田中さんの話を求めて訪れ、バス一台で五十人が押し寄せたこともあった。
幸男さんは説明中に疲れて倒れたこともあったという。

 きくさんは文書の中の大吉の「京都見物日記」や黒船来航を記録した「懐中日記」など数点を訳すことを楽しんでいた。

大吉の印象は

山梨県立文学館図録『樋口一葉の世界』(平成2年10月・福岡哲司編)

まっしぐらに進む性格、八左衛門譲りのきちょうめんさも備えた人

と語る。

 このほか県内には一葉の書簡が二通保管されている。
一葉の母あやめ方の遠縁に当たる雨宮ますゑさん=同市竹森=のもとにある手紙とはがき。
手紙は明治二十六年十二月、一葉の母方のいとこ雨宮源吉あてで、長さ約一メートル。
はがきも同月、源吉あてのものである。

 母・あやめの実家・古屋家には邦子が寄贈した「一棄全集」(博文館)が残されている。

 標柱の立つ青梅街道沿いの「樋口一葉女史先祖旧邸跡並墓所」に一葉の遺骨が入ったことは一度もない。
同敷地のいわゆる屋敷墓地には八左衛門の代までの遣骨が眠っており、その後の子孫は近くの共同墓地に納められている。
ちなみに一葉、大吉、あやめらの遺骨は東京・築地本願寺に入り、関東大震災に伴う区画整理で、杉並区和泉の本願寺墓所へ移っている。

 山梨県立文学館では、平成二年、「樋口一葉の世界」展が開催された。

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