
中村星湖(せいこ)って?

本名「将為(まさため)」。
山梨を舞台にした小説『少年行』で文壇に登場。
その後、自然主義の代表作家の一人とみなされた。
とりわけ短篇小説に手堅い写実手法を示す。
フローベル、モーパッサンなどの紹介に努める一方、
大正デモクラシ−の影響を受け、民衆芸術・農民文学の論客としても知られた。
早稲田時代の星湖
明治36年、星湖は早稲田大学予科に入学。
郷里の甲府中学(現県立甲府第一高等学校)の先輩だった石橋省三(後の総理大臣・湛山)と同期となる。
親戚の医科入学の強い勧めにさからい、早稲田大学文科入学を志す。
入学後、坪内逍遥の講義に感銘、講義時間の増加を友人と共に大学へ申し入れたがうやむやにされる。
上京以来、健康がすぐれず、境遇に不満を感じながらも島崎藤村・薄田泣童・蒲原有明らの詩を愛読、自らも詩を「文庫」などに投じ、新生面を開拓しようとしていた。
一方、「万朝報」の懸賞小説に『御料林』を応募、賞金の5円を学資の一部に充てる。
脱稿した『老巡礼』を牛込の坪内逍遥のところに持参、指導を受ける。
島村抱月と二葉亭四迷
明治38年、島村抱月が文壇待望のなかに帰朝。
片上伸と共に行った会合で星湖は初めて抱月に会う。
以後、牛込対墓庵に抱月をしばしば訪れるようになる。
翌年、抱月の手で8年ぶりに「早稲田文学」が復刊される。
夏期休暇中に書いた『少年行』が、同誌の長編小説に当選したことを抱月から聞かされ、星湖は呆然とと対墓庵の満開の桃の花を眺める。
抱月の勧めで本郷西片町の二葉亭四迷を初めて訪れる。
二葉亭は『少年行』の批評もそこそこにロシアの話ばかりし、なんだかロシア人のように見えた。
二葉亭はゴーゴリの『肖像画』を読むことを勧め、どんな犠牲を払っても文学に邁進するよう激励される。
「早稲田文学」と星湖
大学在籍中に書き上げ、「早稲田文学」懸賞長編小説の1等となった『少年行』(明治40)で、中村星湖は自然主義系の有力新人とみなされる。
選者は二葉亭四迷と島村抱月だった。
卒業後、早稲田文学社に入り、片上伸、相馬御風らと共に活躍、小説を発表する一方、「文章世界」「山梨日日新聞」の選を担当し「読売新間」などに批評を執筆した。
創作集『星潮集』(明治43)『漂泊』(大正2)『女のなか』(大正3)ほか
フランス留学
昭和2年、星湖は『ボワリイ夫人』の印税の半ばを充ててフランス留学を決意する。
出発は翌3年4月。神戸からフランスの郵船シュノンソー号に乗船、途中、インド洋上に客死した師・二葉亭四迷をしのぶ長詩『印度洋を横切りて』を作る。
ヨーロッパでは、セルジュ=工リセーフ、フローペルの姪、ロマン=ロラン、農民作家エミイル=ギヨマンらに会う。
また、弾圧下のパリのメーデーを見たほか、チェコスロバキアで開かれた国際民俗学・芸術会議に参加し、バルビゾンにミレーの旧跡を訪ね、国民文学運動の中心ダブリンのアベー座を見学するなど、精力的に活動する。
フランス文学の紹介者
中村星
湖は、モーパッサンの『死の如く強し』(大正3)『我等の心』(大正10)ほかの訳書を刊行し、ゾラ、バルザック、ロマン・ロラン、デュアメルの紹介にも努めた。
なかでも、『ボワリィ夫人』(フローベル・大正5・早稲田大学出版部)は「我国の最近に行はれた自然主義運動の本道を明かに」するというねらいで、五年間を費やして訳出された。
その後も数次の改訳を経て、原典に忠実な翻訳として知られる。
農民文学・郷土文化
大正15年、中村星湖は吉江喬松
らと共に農民文芸全を結成、みずからも『農民劇場人門』(昭和2)を刊行した。
昭和3年、フランスに留学、『民衆芸術論』の著者ロマン・ロランを訪ねる。
帰国後、全国を回り啓蒙活動に努める。
郷士の歴史・伝承にも関心を深め、多くの論考を発表し、『文化は郷土より』(昭和18)を刊行する。
山人会・富士五湖地方文化協会を結成したほか、山梨文芸賞の審査顧問も務めた。
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