
河口湖町出身の中村星湖は、亡くなった時が90歳と長生きで多方面に活躍した。
けれども、星湖が郷土史にも強い関心を抱いていたことを知る人は、それほど多くない。
教師になった娘の赴任先の九州を訪れて、星湖がキリシタン大名有馬晴信と山梨とのかかわりを知ったのは、太平洋戦争も末の昭和19年。
晴信はヨーロッパへ使節を派遣し、日本のキリスト教伝導の基を築いた、島原の乱で知られる原城主だ。
有馬晴信は罪を受け、甲州に流され、一生を終えていたのである。
どこへ流されどこで死んだのか、それがわからない。
敗色濃厚な戦況とはまったく無縁に、星湖は「歴史発見」に強い関心を抱く。
各方面に協力を依頼、文献にあたる。
郡内のどこか→谷村か猿橋→笹子か→初鹿野だと、星湖が探索していく過程は、推理小説でも読むように面白い。
星湖はゲートル姿で実地調査も敢行した。
墓の所在ははっきりしなかったものの、初鹿野丸林の通称「有馬屋敷」跡で十字架のついた古刀が出たことや、有馬「晴信」と武田「晴信」とのかかわりを知る。
丸林橋をはるかに見上げる日川の河原。
いまや国道20号線は大型車がひっきりなしに行きかう幹線道路になっている。
日照も少ない河原の「有馬屋敷」跡は、ひっそりとした畑中である。
慶長12年(1612)、この地に46年の生涯を終えたドン・ヨハネ有馬晴信の悲運と、それを発掘した「判官びいき」中村星湖のロマンがよみがえって来るようだった。
そういえばこの川の上流は、武田3代滅亡の悲劇の舞台でもある。
(山梨県庁「ふれあい」掲載年不明)