| 【新田次郎・略年譜】 大正1年 長野県上諏訪に生まれる。 昭和7年 中央気象台職員として富士山観測所の交代勤務員となり、以後5年、担当する。 39年 担当した富士山気象レーダーが竣工。『孤高の人』発表。 41年 気象庁を退職、文筆に専念。 42年 『新田次郎山岳小説シリーズ』全5巻刊行。『富土山頂』 47年 『武田信玄』完結。 48年 『武田信玄』と一連の山岳小説について吉川英治賞受賞。 55年 没(67歳) |
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1 ”富士”のある甲州びいき
2 『強力伝』以後、作家に
3 富士山の自然破壊への怒り
4 「地べた」の視点貫く「武田三部作」
―特急が甲府に近づくと、車内に音楽が流れるわね。あれほんとうにいい曲ね。
―武田節ですか?
―そうですってね。新幹線や特急の到着を知らせる音楽も色々あるけれど、あんなステキなの、はじめてよ。
藤原てい氏とのやりとりである。氏が作家・新田次郎氏夫人であることを知らぬ人はいない。この夫婦はそろいもそろって甲州びいきである。ことに新田次郎の甲州好きはつとに知られている。
けれども、その新田が県出身の文化人グループ・山人会のメンバーだったことを知る人は、多くない。
昭和三十六年、彼は学芸通信社の依頼で、初めての新聞小説『温暖前線』に取り組む。作品は全国の地方新聞十一紙に連載された。通信社の社主は川合仁(やすし)。中村星湖・前田晁・望月百合子らとともに、山人会の設立メンバーである。新田が会員となったのは、川合の人物に意気投合した結果である。
彼が山梨に関心を持ったのは、幼児期からのことのようだ。生家は霧ケ峰のふもとの角間新田の郷士で、代々諏訪藩に仕えた。年寄りの炉辺談話は「諏訪の殿様」「武田の殿様」が多い。
この幼年期の思い出はいつも私の頭の中にこびりついており、それが後年小説『武田信玄』を書かせる地盤になった。
作家に専念するために気象庁を退職した昭和四十一年の夏、彼はヨーロッパに遊ぶ。パリで年配の「甲州人」に出会う。新田が
「信州諏訪の出だ」
と答えると
「諏訪か、それなら俺の家来だ」
と決めつける。紳士は自称武田信玄の子孫であり、諏訪は家来筋だという理屈である。
それ以後、甲州出身の人には特に気を使うようになった。甲州人と言えぱその先祖は必ず武田信玄につながりを持っているので、下手なことを言えば、たちまち家来にされてしまう虞(おそれ)があるからだ。
山梨に行って信玄などと呼びすてにしてはいかんよ。必ず信玄公と言うんだよ。
謹言実直な新田の好んだユーモラスなひとつ噺(はなし)ではある。
富士山のあることも、彼を山梨にひきつけてやまなかった。
昭和七年、無線電信講習所(現電気通信大学)を卒業した新田は、中央気象台に就職する。夏、みずから富士山観測所の交代勤務員を希望。以後、足かけ六年勤務し、冬季のの滞頂も経験した。
内藤成雄氏によれば新田の全作品は二八八に及ぶというが、その中で質量とも「富士山もの」の占めるウエイトは重いと言える。
他県の人に
「山梨の人自身、山梨のことをよく言いませんね」
と指摘されることがある。県人から見れぱ、それは一種の照れであり、社交辞令でもある。
新田次郎は、そんな県民性を知ってか知らでか、武田三代や富士山を生涯賛美し、飽くことなく小説に描きつづけた。
(一九九一・七・二三「毎日新聞」山梨版・以下同)
新田次郎の作家としてのスタートも「富士山」だった。昭和二十六年、「サンデー毎日」の三十周年記念懸賞小説に応募、一等入選した『強力伝』(ごうりきでん)がそれだ。執筆の動機を問われると彼は、
妻が『流れる星は生きている』を書き、それがベストセラーになったのに刺激されて、おれも一つやってみようかという気になり、初めて書いたのが『強力伝』で、それ以後小説から足を抜くことができなくなった、
と答えるのが常だった。
主人公のモデルとなったのは、小宮山正。富士山の代表的な強力としてその名を知られていた。自馬山頂に一九○キロもの風景指示盤を担ぎ上げるなど、野獣のように荒々しいところと、測候所で黙々と飯炊きをするおだやかさとを兼ね備えた男だった。
自身の述懐は前の通りだが、書きたいという気持ちを、彼に起こさせたのは、この男の強烈な印象だったのではなかったか。
彼は作家・丹羽文雄の主宰する『文学者』の同人となり、本格的な作家修業を始める。持ち前の気象に関する専門知織を駆使して、作品を次々に発表していく。
昭和三十八年、富士山頂の大型レーダー設置の計画が本格化した。台風観測が主要目的である。担当課は新田が課長となった気象庁測器課。文筆と役所との二足の草鮭(わらじ)でよいものか、迷い始めていたころである。この間、『強力伝』は第三十四回の直木賞を受けており、長短の「富士山もの」も発表していた。『蒼氷』『殉職』……
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翌年、レーダー竣工(しゅんこう)。雑務処理、国連の会議に出席するなど渉外的な仕事を片づけた四十一年、新田は気象庁をやめる。五十四歳で文筆に専念する覚悟だ。
四十二年、大事業の体験を生かして小説『富士山頂』を発表。尾崎秀樹が
「気象レーダー建設という事業を輪に、それにまつわる錯綜(さくそう)した動きを追うことで現代社会のひろがりをもとらえようとしている」
と評した意欲作だった。
その後も「富士山もの」は続く。『芙蓉の人』『怒る富士』『富土に死す』『六合目の仇討』……。
どれも特色のある魅力的な作品ばかりである。
『芙蓉の人』は、明治二十八、九年、山頂測候所の有用性を身をもって実証するため、冬季、八十二日間の壮絶な滞頂を敢行した野中到・千代子夫妻を描く。
長編『富士に死す』は、家財を投げうって信仰登山富士講の教義を完成させた食行身禄(じきぎょうみろく)を扱った。身禄は享保十八年(一八三三)七合五勺の烏帽子岩で断食、即身入定した。
ふたたび、てい夫人とのやりとりから
―新田は登士山が好きで好きで。ここ(吉祥寺)に住んだのも富士山が見えるというので決めたのよ。邪魔する建物ができた時には、随分怒りましてね…なんと言っても「富士はえらい」ってこと。
(一九九一・七・三〇)
長いものではないが『富嶽三十六景』(昭和五十年)には、自然現象はもとより信仰・登山史まで含めた、新田次郎の幅広い閥心が凝縮されている。彼の筆は観光開発と自然破壊に及ぶ。
千六百メートル以上の亜高山性針葉樹林を切り倒して道を作ったためにその道路の両側の植物がつぎつぎに枯死し、一年間に約二万本の枯死樹木となって伝播していく傾向にあるそうである。……自然はできる限り自然のままにしておくのが、人間と自然とのつき合い上必要なことであり、物見遊山の観光ならば、自分の足で歩いて登ればよいのであって、富士山を日本の象徴として置くためには、これ以上の自然破壊はやるべきではなく……
この文章の翌五十一年五月、新田は講演のために富士吉田市を訪れる。富士山を訪れた新田は、次第に口が重くなった。その後、地元の新聞社の依頼で新田は一文を寄せる。
お中道巡りの焦点ともいうべき小御岳神社の……あたりの変貌(ぽう)があまりにも痛々しくて涙が出るほど悲しくなった。
実は、掲載されたこの文章に先だって、新田はすでに一度原稿を書き上げていたのである。新聞社では余りの激しさに弱り、書き直しを頼んだ。
この幻の原稿『富士を守れ』は、県立文学館の企画展「旅の文学」に公開されたから、目にしている人もいるかも知れない。
原題は『自然保護運動』となっている。激しい口調でこんなことを述べる。自然のなかから植物や岩石を持ち出すのも「犯罪」だ。けれども、それが問題にならぬような「合法的目然破壊」が行われている。
以下、長くなるが貴重なので引用したい。
私は三合目から五合目にかけてのあの荒廃ぶりを見て、涙が出てしようがなかった。自動車道路の犠牲となって亡びて行かねばならない富士山の自然が可哀そうでならなかった。自然を破壊し、その屍(しかばね)の上に立って景色を眺めていい気になっている観光客もさることながら、遠い遠い祖先から、いや、人間そのものの生存の証(あかし)として神より与えられた、日本第一の自然を自らの手で破壊して日銭を稼ぐ乞食観光を行って恬然(てんぜん)として恥じない山梨県に対して怒りを感ぜずにはおられなかった。
雪の富士守る精神(こころ)の鉄の盾(たて)
字は乱れ、誤字など構っていられない、ひと思いに紙面に怒りをぶつけたという様子が伝わって来る。原稿の欄外には、鉛筆書きでしょんぼりとこう記されている。
この原稿は著者返却の必要はありません。N先生に進呈して下さい。新田次郎
山梨を、富士山を愛するがゆえの悲哀であった。
(一九九一・八・二)
その日、『武田信玄』のロケ現場は異様な熟気に包まれていた。小淵沢でのロケ公開の初日。主役級のタレント、エキストラ、報道関係者、食事の世話などを引き受けた地元の人々……たくさんの人たちが、入れかわり立ちかわり、あいさつに訪れる。藤原てい夫人がていねいに返されるのは、ただ感謝と慰労のことばに尽きていた。
行軍シーンのロケが始まる。粛々と堂々と、戦国時代にしては見事すぎるサラブレッドにまたがった武将に足軽、騎馬隊が統く。
―すばらしい……新田にこの光景を見せてやりたかった……おそかった……。
何度も何度もくりかえす夫人。そっと横顔をうかがうと、気丈なその目に光るものがあった。
新田次郎が「武田もの」をひんぱんに扱うようになったのは、文筆一途を決意した時期と重なる。
その集大成ともいえるのが『武田信玄』『続武田信玄』『武田勝頼』である。あわせて十五年、原稿用紙五千百枚におよぶ大作である。すでに昭和四十九年には『武田信玄』ほかの仕事に対し、第八回吉川英治賞が与えられていた。
彼が執筆に当たって十分な準備を行ったことは有名だ。『武田信玄』でも「妙法寺記」「高白斎記」「武田三代軍記」などの文献をはじめ、リアルタイムな研究成果を活用している。さらに暇さえあれば現地を踏んでみた。
『武田信玄』は史実をもとにして、しかし、作家・新田次郎の確かな「目」が、そこには働いている。
ものの見方の合理性もそのひとつ。北条攻めの後、武田軍は神社を焼きながら帰国したといわれている。これも、将兵が寒かったから、としごく明快である。
滅亡の原因を、時代の変化と「組織」内の欠陥に求め、武田勝頼凡愚説を明確に否定したのも、新田だ。
「地べた」近くの低い視点も特徴と言える。史実には現れないが、徴発されて従軍した者たちが、何を食べていたのかが、いつも気になったと新田は言う。
民間人、たとえば、友野一族を選んで、すぐれた治水策「信玄堤」を築かせるとか、一介の郷士に過ぎないが、集団の統率に長じていた馬場信春を、武川衆から取り立てた、など。
武田家滅亡の後、ほとんどの家臣は、徳川家の旗本・御家人となって幕府を支えた。徳川幕府の繁栄は、この人材登用があったからだ、と新田は考えた。
彼の関心は「武田家―その後」に広がる。三万枚の原稿用紙をあらたに注文した。『大久保長安』を描く予定だった。猿楽師だが、金山の知識が豊富なことを信玄にかわれ、黒川金山ほかを開発した大蔵太夫。その子孫・十郎は、大久保長安と改名して甲州流の金の精錬術で徳川家康に重く用いられる。
この作品で、新田の武田家にかかわる「三部作」は完成するはずだった。『大久保長安』は、五十五年一月から「歴史読本」に四か月間連載されて中断した。三月十五日、作者・新田次郎が心筋梗塞(こうそく)で突然にこの世を去ったからである。
(一九九一・八・六)