
狭い上り坂を、左のさらに狭い下り坂にはいったどんづまりは、片側が土塀になった石畳の路地である。ここに下り立つといつも軽い緊張感と、それでいてしんと落ち着いた気分に包まれる。ここは一年中ツツジや塀からのぞく萩や落ち葉に彩られたトンネルというか、迷路のようでもある。高い石柱でできた門から明るい庭に足を踏み入れると居ずまいを正さなければという思いにかられる。けれども、拒絶的な雰囲気ではない。住む人がたたずまいに顕れるというのだろうか、誰もここへ来て主と対面すると、平静なゆったりした気分にひたってしまうようだ。某知事さんも某教育長さんも某歌人も、いい大人がみんな夢見ごこちで辞去した
というはなしを聞いた。境川小黒坂の飯田龍太先生のお宅である。
俳句をやる者なら、ここが飯田蛇笏の山廬であり、龍太氏の「雲母」の本拠だと思うからいっそう緊張するはずである。僕などのような門外漢は平気のはずだが、それでも作法をしらないで茶を呈されるようなすわりの悪さを感じた。
龍太先生が文学館の建設懇話会に見える際には、いかにも仕立てのいい縞のスーツに帽子をかぶったダンディななりでおいでになる。会議中はたいてい終始無言である。会が終わると時間が惜しいという風にさっさと帰られる。この印象があるから、僕は山廬にうかがってもよけいに緊張していたのだ。
ところが、山廬でお目にかかる龍太先生はといえば、常に自然体で拍子抜けさせられてしまう。「やあ」と軽い声音とともに膝の抜けたズボンで登場されたり、セブンスターをすぱすぱ吸われて灰をそこいらに落としはしないかとはらはらさせたり、高級な甘味をむしゃむしゃ召し上がったり……。ざっくばらんで口中に笑みを込めたような含み声、むしろ瓢逸と言える会話は、いつの間にかこちらをゆったりとなごませてしまう。
文学館のロビーで観せる蛇笏の評伝映像を作ろうとしたとき、子息の龍太氏の談話はどうしても入れたかった。忙しい日程を無理にさいていただいて山廬の囲炉裏端でカメラに収めることにした。中日映画社の演出のTさん、カメラのMさん、プロデューサーのGさん、助手などとともにうち揃ってでかけた。Tさんが慶応の仏文出身であることから知れるとおり、映画屋さんは「文学青年」あがりが多い。みんな多少緊張していて、いつもの軽口が少ない。
カメラ、照明……準備はすっかりできた(かにみえた)。龍太先生は広瀬直瀬氏と雑談をしておられる。となりの部屋でMさんがデンスケ(録音器)を調整している。ちょっと時間がかかりすぎるなと僕は思っていた。MさんがTさんを手まねで呼ぶ。二人でデンスケののぞき込んだりマイクをいじったりして首をかしげている。広瀬氏が僕に「お忙しいのだから、はやく」とサインをおくる。僕は、また、MさんとTさんを見る。二人とも目付きが変である。
近づいて話を聞いた僕は青くなった。
「点検してきたんじゃなかったのか」
「任せたのがいけなかった。オームが違っているとはな」
「どうするんだ」
「オームの合うマイクを用意する」
「用意するっていったって」
「石和でも甲府でも」
「あるか?」
「あるだろう」
「音質はどうなんだ」
「……。会社にすっとんで行かせるか」
「先生を待たせるわけにはいかんだろう」
とんでもないことになった。
「会社行けば大丈夫なんですか?」
「ええ、もちろん」
「取りに行くとすれば何時になります?」
「夕方。いや夜までには」
僕は頭を抱えてしまった。今、撮影・録音させてもらわないと、また、いつ時間がいただけるか分からないではないか。
僕は広瀬さんに声をかけた。気がつかない。見えるはずのない背中に手をふったり、小声で声をかけたりして、やっと気がついてくれた。事情を話すと広瀬さんもさっと顔色が変わり、
「なんとかならんのか」
と言う。
「どうにも」
「先生に時間をもらえるかどうかだ、弱ったな」
仕方がなく、一同思い余って四角に座り龍太先生に事情を話した。脇の下に汗が流れた。龍太先生はびっくりされたようだったが、すぐに笑い出して
「あ、じゃ、明日、明日にしましょう、ね」
「お時間は大丈夫なんですか?」
「え? あ、そんなに時間のかかるものじゃないし、明日にしましょう」
あまりあっけなくて茫然としたくらいだった。一同、まだ、四角の膝を崩せない。ことにカメラマンのMさんは、膝の上に手を置いて太り気味の体がちいさく丸まってうつむいている。
龍太先生、
「NHKだってしょっちゅうあるんですから、ね、ま、今日は一杯呑みましょう」。
いつの間にか奥さんがビールをお盆に乗せて傍らにみえていた。
一同、汗をかきかきビールを注いでいただく。誰も口に運べない。Mさんはまだ生八橋のおたべ人形みたいに座って汗をかいている。龍太先生、
「はい、ダンナ、そんなに四角になっていないでビール呑みなさいよ。明日やればいいんだから、ね、今日はビール」。
翌日、撮影・録音は無事済んだ。龍太先生は蛇笏句、
薔薇園一夫多妻の場を思う
を挙げて、高齢ながらこのような色気のある句を詠めたことを指摘し、実生活において自らの放恣をかたく戒めていた結果だと語った。家族としてばかりでなく、俳人同士として見た飯田蛇笏について、ほかの誰にも言えなかった印象的で的確な蛇笏評だった。これはとりもなおさず龍太先生自身のことでもあろうと思われた。この発言にわが身を省みてぎくりとしたのはぼくだけだろうか。
中日映画のMさんは、それから何日も山廬周辺を撮影してまわり、蛇笏さんの墓前に線香を焚いて撮ろうとして香煙の上がり方に腐心したり、大ケヤキに白雲がかかるのを日がな一日待っていたり、山廬の楓の細い幹を懸命にゆすって葉を落とそうと努力(?)したり、蛇笏さんにふさわしい映像を撮りたいと苦心惨憺していた。
(1993)
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