打つゞく熱とその疲労に
けふも終日ねむつてゐるわが子よ
お前の小さい頭に手をおいて今更に無力な母である
生きてゆくためのけなげな戦ひがこの小さいからだになされてゐる
早まつてゆく心臓の鼓動に
にぎりしめられた小さい手に、ちぢかんだ美しい足に!
この世の幸福を私は知らない
このめざましい戦ひに勝つてお前はなににしあはせを見出して残るのか?
専越な人々が無理にお前の上に下した不合理を
生れながら片手落な現世のみじめさを
お前は苦んで生きなければならない
あゝ、私がこのやうに愚でさへなかつたら、たとへ歯をくひしばつても、お前の生を希はないだらう!
私は暗黒な二つの道に恐れもてお前を抱いて立つ
死が消滅であつても、静止であつても
生きてゆく今の社会がどれほどそれに勝るものか!
打つゞく熱にすでにおとろへて
わびしくも目をつむつてゐる坊やよ
その色あせた頬にわが唇をおしつけながら、今更に無力な母である
どうか死なないでくれ
もう一度助かつてくれ
再び健康にするために私の何をかけよう!
病める肉体か!
反逆と憎悪に燃えるこの心か!
お前はも早、運命や、希望や、恩愛のきづなではない
私といふ人間のどん底の一つの光である
生きてゐる一つの資格である
つかみ出したたつた一つの将来である
苦しいか 痛いか
坊やよ
母さんはどこをどうしてあげよう
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僕の健康は挨つぽく
僕の思想は蒼ざめて
生活は蚯蚓(みみず)のやうに土臭い。
−−笑つて呉れ給へ
僕は土百姓さね
さやうなら−−娘さん。
冷えかたまつた古綿のやうな
この萎んだ詩嚢を
ごむまりのやうに
ふつくり、ふくらませて呉れる
太陽を慕つて
さんさんと陽光の降りそゝぐ田甫に
僕は故郷の唄をうたほう。
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(前略)
この世は市場だ
算盤珠をパチバチはじくような音がする
かすれたキイキイ声もする
隅の方には何かぶつぶつ言つている
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天上の孤絶を泣いて
雨は降る 降る
手にとつてみると
瞳のように澄み
落花のようにふるえている 雨
ああ 雨
庭すみの窪地を流れ
孤高のポプラの梢や
切れの深い 棕櫚の葉を浮べている雨よ
見ている わたしの顔も
いつか そこに浮び
新しい夢が
門の外に花びらのように流れた
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こよひ 乏しいわが家の厨に
わづかながら里芋があり
みづみづしい冬菜と葱(ねぎ)の一把があり
今日配給のさつま芋のいくつかがあるなり
笊(ざる)の中には
明日の朝炊(かし)ぐ米のありて
小鍋の水に沈めるは
昼間母や子供らが刈田から採り来たりたる
田螺(たにし)なり
こよひわが家の厨に
貧しくとも
明日の糧ありて
家の者ら皆安らかに熟睡(うまい)せり
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朝食には
陶器に炎えたつ氷柱(つらら)のかげを
午餉には
籠目に匂う秋風の宝石を
晩餐には
玻璃を灯す晶化の光度を
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もがいている日々は地上を這い廻るようだ。儂(わし)はひとりになると山へでかける。そこに人の愁いを絶した悲しみがあるからだ。
無聊に苦しめば、儂は燃えさかる炎の前で両腕をあげてみる。かぼそい腕は十数倍の太さになつて、壁面を占有する。
儂はこの幻影の逞しさを愛す。
儂は善と悪を同時に愛す。ともに人の表裏と信じるからだ。
儂は中古の書物を愛す。赤錆ぴた頁からは、文字以外の影像を読み得るのだ。
儂は一冊の書物をじつと抱きしめていたりする。
ひとと倶(とも)にあるとき、儂は奇妙な渓流の音をきく。淙々と胸の深みへ渡る孤独の魚。
ひとりきりになると不思議に安全感をおぼえるのだ。
血の気の失せた眼は、風化した貝殻のようではないか!
儂は枯草のなかの一本の花をなつかしむ。
みいだし難い愛にそつくりだ。
儂は雷雨を愛す。雨に洗われた道を愛す。濃は収穫の時を愛すo
儂は酒を愛す。
人を欺すことの上手な、愛の神と同じ価値をもつからだ。
儂は色彩を愛す。金を愛す。いずれも儂に欠乏しているしろものだ。
いたましい友情よ。
儂は誰もいないブランコを愛す。壊れた玩具を愛す。
儂は幼いものを愛す。
太陽に向つてわめいているのはひとに隠した儂の魂だ。
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甲府の町から僕の村まで
鉄道馬車が走っていた
土曜日が来ると
下宿屋へ教科書の鞄を置いて
駅からこの馬車へ乗る
せいぜい十数人しか乗れない
狭い箱の隅っこに
乗客の顔もろくろく見えない程
暗いランプが一つ点(つ)いていた
御者の馬の尻を打つ
鞭の音が寒々とひびき
囲園の中をゆっくり走る
馬車の中で僕はいつも胸に描く
くぐり扉のある門から続く
石畳の上を速足で行く自分の姿を
あがりはなに現れて
前掛で粉だらけの手を拭きつつ
僕を迎えてくれるお袋の笑顔を−−
明治の頃東京を走っていた
この鉄道馬車は
慶応義塾で学んだ伯父さんの
努力で引かれたのだ
伯父さんは村境の曲り角で
倒れた馬車の下敷になって
亡くなられたのだ
僕はこの鉄道馬車に乗って
帰宅する土曜日がとても待ち遠しかった
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僕は僕の財布を壁に針(ぴん)で留めてしまつた
それは最後のキリストのやうに儼である
僕は僕の肋骨を焚火してあたたまるのだ
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恵林寺の奥深い松の木の下で
武田信玄は眠っていた
セミがしきりに鳴き
静けさが立ちとまり
また歩いて行った
その後姿は
ちんばの山本勘介によく似ていた
ついさっき
寺の前のバス停で
わりときれいな若い女が降りたが
勘介はその女性を探しに行ったのだろう
お館(やかた)様の長い眠りのあとの
重い目覚めに
さわやかな側室をすすめるために
しかし 静けさだけが戻ってきて
考えこむ
死んだものは死にっきりだが
夢は希望にそってよみがえってくる
と 騎馬隊の足音が群れてきて
また遠ざかって行った
信玄の夢は
騎馬隊の要求を満たして
飽きることがない
飽きないのも死ぬことだ
そのとき
勘介の片目をのがれた若い女が
ぼくの前にあらわれた
「東京からいらっしやったのですか」
「そうです」
ぼくは東京から
信玄の墓を見にきたのだが
側室候補の女性に会えて
イメージが豊かになって嬉しい
この甲州女の顔は丸い
いままで信玄と愛情を交わした
信州女の顔はみな長いのに
何故だろう?
地形に通じあっているからだ
静けさもぼくの考えに同調して
はじめて信玄の墓の台に
腰をおろした
セミの声に
ヒグラシの声がまじってきた
異相の軍師山本勘介は
いったい笛吹川のどのあたりを
探しまわっているのだろう
未来の側室がここにいるとも知らずに
キツツキの戦法は
ふたたぴこの甲州女によって
破られたのだろうか
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親父は田の草取りに行つた。
大勢の餓鬼共の胃の腑を考へ考へ
控目にしか飯が食へなかつた。
それでも餓鬼共は元気でアバレた。
−−お父(とつ)ちやん−−
呼びとめやうと思つたが
これ以上に心配をかけてはと思つたので
空の飯櫃かぢりかぢり
昼間の飯の苦面に血の気も失せてしまつた。
莫迦莫迦(ばかばか)しい、俺はいつそ!
歯を食ひしばつてはみたものゝ
親父一人の痩腕と
六人の餓鬼共を残して
まさか
それ程の勇気もなかつた。
仕方なしに笊(ざる)をかかへて
米借に歩いたが
二軒が二軒ないと言つてことはられた。
二時も廻つた。
親父もせつせと田から帰つて来た
心配気に昼飯アと言つたが
俺には何とも答へられなかつた。
親子九人石地蔵みたやうに
唐もろこしで腹を塞(ふさ)げた。