山本周五郎は出自を語ることを潔しとしなかった。強いて尋ねるものには「日本のような狭い島国で、自分はどこそこ県人だ……などとしりの穴の小さいことを言ったってはじまるかい」とはねつけるのが常だった。
彼は自分の生まれを北巨摩軍大草村若尾(現韮崎市大草町)として、武田家の御倉奉行だった清水大隅守政秀の子孫だと周囲には語っていた。
私の家は伝統の古い武家だったそうで、(略)五つの年に袴着の式というのをやらされ、七つの年には切腹の作法をやらされたのです。(「酒も食べ物も」)
ところが、周五郎の没後、山梨県立塩山商業高校の文芸部の手によってこの事実が訂正されることになった。山本周五郎・本名清水三十六(さとむ)の一族は、すでに祖父伊三郎の代になんらかの事情で韮崎の大草から初狩に転居していたのである。
その名の示す通り、彼は明治36年6月22日、北都留郡初狩村(現大月市下初狩り)で生まれた。母親のとくは竜王(現中巨摩郡)の出で、初狩の機屋に奉公していた。逸太郎と恋仲となり三十六をみごもったものの、父親の伊三郎は結婚を認めなかった。ふたりはやむなく奥脇賢造の借家に住む大伯母斎藤まつ乃方に寄寓し、三十六はここで−一節には馬小屋とも−産声をあげることとなる。後年、ほろ酔いの周五郎が語る「俺はキリストだぞ」という不思議なせりふを耳にした者もいる。
周五郎を含む逸太郎一家は、間もなく大月の広里村に転居する。
明治40年8月、連日の豪雨に県内各地は大きな被害を受ける。初狩も例外ではなかった。24日午前7時、高川山と同心ケ岳に挟まれた寒場沢が崩壊、山津波となって沢を駆け下りた。立木を巻きこんだ土砂流は7,8回も来襲し、初狩では50戸が埋没、30人もが行方不明になった。三十六の親族も、叔父の菊蔵を残し、全員が泥流のなかに呑みこまれた。
三十六と母親、それによそに出ていた父逸太郎はこの難を免れた。とくは三十六を連れて逸太郎の住む東京府王子町(現北区豊島)へと移る。
周五郎が自分の先祖だとした清水大隅守政秀の実在は、今も確証がない。記憶力の抜群だった彼は、一方でたぶんに夢想家でもあった。真偽はさだかではないが、大真面目な彼の懐旧談に親しかった人々はしばしば当惑させられてい。
おそらく、彼が周囲に語ったことの全ては、彼自身にとっての「真実」だったのだろう。韮崎の大草は南アルプスの前山・甘利山の麓である。ここに幾百年雌伏してきた武田武士の精神が、自らの内に脈々と生きているという夢想は、いつしか周五郎のなかで揺るぎない矜持として昇華していったのだと思われる。
山本周五郎はふたりの人物を「生涯の恩人」と呼んでいる。横浜の西前小学校の担任だった水野実と、後に彼が自分のペンネームに借りた奉公先の主人「山本周五郎」である。
明治の末、周五郎・清水三十六の一家は横浜に転居する。三十六の編入した西前小学校は、夏目漱石そっくりの風貌をした和田奈々吉校長の方針で綴り方教育に熱を入れていた。三十六は学級新聞の委員を務め、実体験にフィクションをまぜたような作文をこしらえるのが得意だった。彼は水野実に「小説家にでもなれ」と言われる。4年生のこの日から、周五郎は小説家になろうとする夢を1日たりとも忘れたことはなかったという。父親の逸太郎が「三十六は小説家になりたいと言うが、これはエライ(大変な)ことだ」と心配するのを聞いた初狩以来の知人もいる。
三十六は横浜第一中学校への進学を望んでいたが、周囲のおおかたの子供同様、家計がそれを許さなかった。父親も繭・生糸商、小料理屋、金融業など、職が定まらなかった。隣人の勧めで、三十六は東京木挽町のきねや質店に住み込んで奉公することになる。
店主の洒落斎山本周五郎は手堅い商売人だったが、個人雑誌「花籠」に小説を寄せるような文芸趣味も持ち合わせていた。丁稚、番頭には夜学に通うことを勧め、盛んに詩や文、随筆を作らせた。彼らの回覧雑誌「創作」には、周五郎の最も初期の作品と言われる『曠野の落日』も載せられている。本好きの三十六が蔵の本を片っぱしから読み進むのを許すなと、きねや質店には彼の小説家への夢をはぐくむ雰囲気があった。
面倒見のよかった洒落斎を使用人たちは慕い、死ぬまで同窓会的な集まりをもっていた。周囲は彼こそ「本当の父親だ」と真顔で言うほどだった。
大正12年9月の関東大震災できねや質店はひとまず解散。20歳になっていた三十六はこの機会に小学校以来の夢を現実のものにしたいと考えた。作家である。ところが、出版社は壊滅的な被害を受け、文壇人も茫然自失のありさまだった。谷崎潤一郎、吉井勇、直木三十五のように関西に移住する者も現れ始めた。東京は彼の夢をかなえる天地とは思われなかった。
彼は中央線経由で関西に向かい、大阪朝日新聞社で被災ルポを書いて初めての原稿料を手にする。その後、神戸におもむき、文壇デビュー作となる『須磨寺附近』(大正15年「文藝春秋」)のモチーフを得る。この作品で彼は「山本周五郎」のペンネームを初めて使う。彼自身は編集者の勘違いからだと言うが、本当のところはどうだったのだろう。いかにも照れやの周五郎らしいこころ温まる逸話である。
父を京見物に連れて行き度く思う。金ができたら実行するだろう。だれからも便りなし。
『青べか日記』は昭和3年から翌年にかけて、千葉県の浦安で書きつがれた。周五郎は前年の暮、母親のとくを亡くした上に、失恋、失業と物心ともに逼迫していた。「あいむ・りまあかぶる・ふぇろう(余は非凡人なり)」と呟きながらも、さくひんは徳田秋声のところに持ち込んでは黙殺され、出版社には突き返されるという日々だった。それでも、彼は時折、慢性の神経痛に悩む父のもとを訪れている。
周五郎の語る父・逸太郎像はいずれも辛辣である。
道楽者のくせにけちで、自分は二度も女をつくって逃亡したりしながら、財布は自分がにぎっていて放さず……(「語る事なし」)
という具合である。
尾崎秀樹は周五郎のことを「珍しく父親像の不明確な作家」だと指摘する。が、周五郎が父親のイメージを投影している作品がまったくないというわけでもない。晩年の傑作短編のひとつ『おさん』には、こうある。
父の弥兵衛は大工の棟梁だったが、吝嗇なくせに人の良い性分で、いつも損ばかりしていた。(略)参太が五つのときと、八つのときと二度、その父親が深川あたりの芸妓と逃げたことがあった。(略)二度とも妓にだまされたらしい。
一方、母親のとくは「平凡中の平凡なひとであり(略)おろかしくさえあった」。息子の処女作が「文藝春秋」に載った時も、誇りに思ったり、自分から進んで読もうとすることはなかった。
困ったような顔つきで小説なんか書いて道楽者にでもならなければいいが、と心配しただけであった。
けれども、彼女が死んだ時、やってきた近所のおかみさん連中は、生前の母から受けた恩義を涙ながらに繰り返し繰り返し語って聞かせるのだった。女房が死んで箪笥をあけてみたらそこは空っぽだったが、心からの弔問客があったというのは、周五郎自身の経験でもあるが、ほかならぬ母親とくの姿でもあった。直木賞の対象(辞退するが)となった『日本婦道記』中の『松の花』は、こんな母親のイメージがもとになっている。
『青べか日記』に見える父親への思い。様々な回想のなかの母親の姿。甲州に連なる過去の栄光はともかくも、目前の非凡ならざる両親にいつも不甲斐なさを覚えて育った周五郎だった。が、自分が歩み始めた文学への道や女、文学仲間への嫉妬に煩悶してみると、「おろかしくさえあ」る平凡人の一生に、彼はしみじみとした共感を抱けるようになっていたのかも知れない。周五郎文学の生涯のテーマは、この両親から得られたと言ってもいいだろう。
周五郎に「曲軒」とあだ名をつけたのは馬込「文士村」の村長格だった尾崎士郎である。周五郎自身はこのあだ名をどう思っていたのだろう。
これは他の人たちの書かない主題を他の人たちの書かないように書きたい(略)という私の謙遜な立場を支持されたものと考えるのにかなり好都合だと思う。(「小説の芸術性」)
確かに彼の作家としての姿勢は個性的だったと言えるだろう。
彼によれば、ものを書くのは事業ではなく、原稿料を生活を成り立たせるための「収入」だとはいっぺんも考えたことはないという。原稿料は作家に「人間全体、社会全体ないしはそういうものをひっくるめて、将来どうあったらいいかというような、より広汎なテーを絶えず頭に描き、それを検討」させるための投資なのである。
周五郎は賞をもらうことも固持しつづけた。『日本婦道記』による直木賞(昭和18年)をはじめとして毎日出版文化賞(34年)文藝春秋読者賞(36年)……。その理由にいわく、
私はつねづね各社の編集部や読者や批評家諸氏から、過分な「賞」を頂いている。
周五郎も狷介な甲州人の一人である。不遜のようにもとれる発言だが、読者を侮ってはいけない、作家は最大多数の読者に読まれる努力をすべきだというのが、彼の口癖でもあった。
作家になった時から、彼は小説には「よき小説とよくない小説とがあるのみ」だと思い続けてきた。「講談雑誌」に出しても「改造」「中央公論」に出してもおかしくない小説が生み出せるはずだし、生み出してやると、彼は意地をはっていた。
時代小説の多い周五郎である。しかし、彼は聞いた話や参考にした史料を生のまま小説に使うことを自分に厳しく禁じた。書くべきことは話や史実ではなく、書かずにいられない情熱や現代の読者に訴えずにはいられないテーマがそこに立ち上がってくることこそ、なによりも重要と考えたからである。
慶長五年の何月何日に大阪城でどういうことがあったかではなくて、そのとき道修町のある商家の丁稚がどういう悲しい思いをしたか(略)どういうことをしようとしたかということを探究するのが文学の仕事だ。(「歴史と文学」)
「曲軒」と称された周五郎だが、こうしてみると彼はあまりにもまともで、むしろかっこうよくさえある。文士ぶっているとも評された周五郎。「ぶる」のではなく、彼は文士そのものだったと言えるのではないだろうか。
彼は、また、「よき小説」を作るために、生活のすべてを緻密に組み立てていた。日課表を忠実に守り、食事にも気を配った。家庭も仕事も共に大事にするために独居、自炊を原則とした。そうして、最後まで非情なまでに周囲の人々から何かを吸い取ろうとしていた。「すべては『これから』」とつぶやきながら。
偏狭な同県人意識を嫌った周五郎だったが、彼に山梨にかかわる作品はけっして少なくない。
彼の初めての新聞小説は『明和絵暦』(昭和9年)である。竜王(現中巨摩郡)出身の兵学者山県大弐と明和事件がテーマだった。この作品には後年の周五郎作品の典型的な人物像がすでに登場していた。志の達成が不可能であると知りつつ全力を尽くし、中途に倒れる。
しかし、『明和絵暦』の出来映えには彼自身満足できなかったようだ。確かに、人物はいかにも型にはまっていし、文体も読み物風の軽さを脱していない。彼は後に再び同じテーマで『夜明けの辻』(15年)を書き直す。
このほか、幕末風雲急を告げる慶応三年、石和代官所の郡代料治新兵衛が農民の持ち米を代官所の社倉に移し、やがて訪れる農民の危機を救うという、短いならも佳作『米の武士道』(17年)がある。また、彼の生地の初狩付近から書き起こされる『夜霧の半太郎』(29年)のほか、『甲府評判記』(11年)『春いくたび』(15年)『甲信の春』(17年)など。
「山梨もの」の中で、もっともよく知られているのは『山彦乙女』(26年)だろう。これに先立って彼は『藪落とし』(10年)を発表している。作品はかんば沢に埋蔵された水晶に取りつかれた男の悲劇的な生涯を扱っていた。この主人公が『山彦乙女』の遠藤兵庫の原形であることは言うまでもない。
将軍綱吉の死、柳沢吉保の失脚、柳沢一党の暴挙の企て、近寄ると必ず狂事の起こるかんば沢、武田の再興を図る甘利山の麓のみどう家、その家の登世・花世の姉妹、武田八幡境内の薪能……。作品はエンタテイメントの要素に事欠かない。周五郎のほんとうの生まれ故郷初狩の地名や環境にミックスして魂のふるさとである韮崎の大草付近の風物もふんだんに盛り込まれている。
周五郎がこのロマンティックな作品に込めようとしたものは、次の言葉にも明らかだ。
五百年、千年のむかしにも、私たちがこうして眺めるように、誰かが、こんなふうに、あの山を眺めたかもしれない。(略)これから五百年、千年ののちにも。
過去も現在も未来も、人間は生きてきて悩んだり苦しんだり愛したり憎んだりしながら、やがて死んでゆき、忘れられてしまう。
(略)
人間の為したこと、為しつつあること、これから為すであろうことは、すべて時間の経過のなかにかき消されてしまう。−−慥(たし)かなのは、自分がいま生きているということだ、生きていて、ものを考えたり悩んだり苦しんだり愛しあったりすることができる、ということだ。
臨終の床で周五郎は、医師の用意した強心剤の注射を「徒労だ」と断り、やがて、無意識に沈んでポツリ。
「山へ……」
と呟いた。彼の脳裏に写る「山」はどんな姿をしていたのだろう