
三井甲之を語ろうとする時、私はいつも吉川悦司さんのことを思い出す。静岡市で電化ストアを営みながら、独力で『三井甲之全集』を編纂していた。つい先年亡くなり、全集も四巻、それに文芸誌「アカネ」の復刻巻を刊行したにとどまった。
亡くなる数か月前、死病にあるなどとは知らず、ぼくは静岡に伺ったことがある。電話で話していても、是非とも会いたいという吉川さんの思いが伝わってきたからだ。以下は、その折、吉川さんが三井甲之について語ったあらましである。温厚な吉川さんが、珍しく思い詰めたような口調で語り続けた。冷静なはずの吉川さんが、病気のせいだけではなく、目元を赤くしていた。
2・26事件(昭和11年)の思想的バック・ボーンだったといわれる北一輝。彼と三井甲之とを称して、戦前戦中の「右翼のイデオローグ」だったと言われる。が、ふたりの在り方は明確に違う、と吉川さん。
北は、当時、農村の疲弊に喘ぐ東北出身の若い兵に、軍事クーデターで「世直し」すれば腹一杯飯が食えるとそそのかした。彼は「民」の名を利用して、以後、泥沼の事態にまで歴史をひきずりこんでいった。三井甲之の「原理日本」誌とそのグループ「しきしまのみち会」は、そのような短絡的な実際行動だけが目的ではなかった。あくまで思想研究、啓蒙運動だった。甲之の観念の中の「民」は、それなくしては国家も歴史も成り立たぬほどの重い意味があった。
そういえば、甲之の子息である三井広人さんから、こんな話をうかがったことがある。2・26事件の時、甲府の連隊から三井甲之を迎えに兵隊が来た。事件とのかかわりを追求するためである。兵営に連行され、長時間の取り調べのもと甲之は帰宅を許されたという。
5・15事件の決起軍が犬養首相を襲撃した。その折の「話せばわかる」(犬養)「問答無用」(決起将校)という有名なやりとりは何を意味するのか。犬養には、あまりにも楽天的な「ことば」への信頼がある。一方、将校らにはあまりにもペシミスティックな「ことば」への不信がある。周知のとおり、「ことば」を信じられぬ者たち、したがって「歴史」を信じられぬ者たちが、その後の「歴史」を動かすことになった。
甲之は若年からの文芸活動の中で、あるいは「馬酔木」「アカネ」のオルガナイザーとして「ことば」のもどかしさ、あやうさをいやというほど知っていた。けれども、同時に人と人とを結びつけ、一つの国家をかたちづくり、歴史を動かしていくものも「ことば」しかないという悲壮な信念もあった。
「わたしたちが甲之にひかれたのは、なによりも、そのポエジー−『詩』なんです。ゲーテ詩や『フアウスト』の翻訳や自作詩のなかに溢れるロマンなんです」
吉川さんは「積読一貫居士」という戒名をみずから用意していたほどの読書家だった。静岡のお宅の書斎には、自分で考案した集積書庫の中に、文学・哲学・宗教・倫理学と多方面にわたるおびただしい蔵書があった。一方、独力で全集刊行に必要な写植機、オフセット印刷機、製本機なども。
吉川さんは、甲之が伊藤左千夫に託されて編輯した根岸短歌会の機関紙「アカネ」やその後継誌の「人生と表現」を復刻収録することで『三井甲之全集』刊行をスタートさせた。それに甲之自身がスクラップしていた大正・昭和にかけてもろもろの雑誌・新聞に発表した評論。次には、子息広人さんから文学館に寄贈されてある数々の詩篇を拾い集めたいと準備を始めていたところの死で、『全集』の完結は果たなかった。『全集』完結までは吉川さんは「しきしまの道」会の最後のひとりだと言っていた。
吉川さんの仕事は未完だったが、甲之の生涯の最良の部分をまとめたといってもいい。甲之の文学者、あるいは、思想家としての業績はこの『全集』に次の作品を付け加えれば尽きていると思える。
東京帝国大学卒業時にまとめた『万葉集論』・自作詩集『消なば消ぬがに』、雑誌「日本及日本人」に三か年連載したゲーテの『フアウスト』訳、没後刊行された『三井甲之歌集』『三井甲之存稿』。
吉川さんの納骨も済んで、奥さんと息子さん夫婦が甲府を訪れた。父親があれほどまで敬愛しつづけたわけを知りたい、感じとりたいということだった。文学館の三井甲之コーナーを見てもらった。ジュラルミンのパネルにシルクスクリーンでプリントされた甲之自筆による『墓碑銘−石にしるすことば』。
コノ石ハ
天地(アメツチ)ノアヒダニアリテ
天地ニツラナリテ
ココニアリ。
コノ石ニ
コトバヲシルス。
人ハ死スレドモ
コトバハ生キテ
イノチヲツナグ。
コノツナガリハ
地上ノサカヒヲコエテ
ヘダテナキ宇宙ニヒロゴル
コトバコソ
カギリナキ生命ノシルシナレ。
イマソノコトバヲシルス。
ワガイノチノシルシナリ
ココニシルスヤマトコトバハ。
吉川さんの奥さんが
「あっ」
と声を挙げた。
「主人が石板を買ってきて刻んでいたのはこの詩です」。
ぼくも吉川さんがみずからノミでこつこつこの詩を刻んでいたのを知っていた。この詩の石碑を芸術の森に建てさせてくれないかという申し出を、以前、ぼくは断っていたのだ。小さな石板のようなものだったら展示に使えるかも知れないと言った。『石にしるすことば』碑も未完に終わった。
ご家族は甲府の羽黒の青松院の三井甲之の墓に参った。そのあと、「ごあいさつだけでも」というので、敷島の三井さん宅にお連れした。玄関先でというのを三井広人さんや奥さんのご厚意で座敷に上がった。
吉川さんの奥さんは
「先生をあれほど尊敬し続けられたなんて、主人はほんとうに幸せでした。」
と言った。甲之に対する思いが少しはわかったような気がするとも言った。
(1992・3)